第2話 巡り合わせ
夕焼けも深まり、紫色に染まり始めた空の下。体高5mという巨体になった闇猫が、優という餌に向けて必殺の猫パンチを繰り出そうとしている。
最期の悪あがきとして死の瞬間まで闇猫の動きを追っていた優。ただ、瞬きをして目を開くと、目の前の景色は一転していた。
目の前にいたはずの闇猫が居なくなり、その代わりに宙を舞う狐面の少女がそこに居たのだ。
沈みゆく夕日を背に優雅に宙を舞う少女に、刹那の間、優は見惚れる。だが、直後に訪れた骨が砕ける音と肉がつぶれる音。そして、蹴りの衝撃波によって、すぐに幻想的な光景は終わりを告げた。
――少女が、餌を前に隙だらけだった闇猫を蹴り飛ばした。
衝撃波から顔を腕で守る優は、すぐさま状況を整理する。しかし、衝撃が止むと同時にスタッと軽やかに着地した少女を、優は都合三度も見間違えた。
まず少女の顔の上半分を隠すそのお面に見覚えがあった優は、そのお面の持ち主――常坂久遠だと見間違う。
しかし、髪の色が違う。久遠の髪は光の加減でわずかに青みがかっているようにも見える黒をしているが、その人物の髪色はこげ茶色。髪の長さも久遠が背中に届きそうなセミロング丈なのに対し、宙を舞う人物は肩にかからないくらいの長さだ。
やや内に巻く癖のある深い茶色の髪はまるで――。
「はる、の……?」
春野楓なのではないか。顔が隠れてしまっているがゆえに、そう思ってしまう。しかし、これもすぐに見間違いと分かる。
例えば身長が違う。春野は天と同じくらいの低身長だ。だが、目の前の人物はシアと同じくらい。160㎝くらいはあるだろう。身体のラインこそ春野と似ているが、身長のせいだろうか。アンバランスさは解消され、単純にプロポーションの良い女性のように見える。
最後に、目の前の人物が人間なのだと見間違う。が、優の〈感知〉が感じ取る少女のマナは疑いようもないほどに禍々しい。それに普通の人間は、体高5m、軽く300㎞を超えるだろう闇猫の巨体を蹴り飛ばすことなどできない。
(つまりは魔人、か……)
ゆっくりと立ち上がるお面の魔人を、優は警戒と共に眺める。
この魔人は、強い。難波・心斎橋魔獣災害の時に会った全盛期の闇猫には劣るものの、魔力だけで言えばこれまで優が会ってきた中で2番目に高い。いや、闇猫が弱体化している今、優が知る中で最も高い魔力の持ち主と言っても良かった。
闇猫との戦いで気力も体力も魔力も減らした中で現れた、魔人。一難去ってまた一難どころか、落とし穴の底に地獄とも言える状況だ。
(それでも、戦うしかない……)
到底この魔人が見逃してくれるとは思えない今、優には戦う以外の選択肢が無い。改めて警戒と共に腰を落とした優に向けて、仮面の魔人はすっと手のひらを向けて来た。
(――〈魔弾〉が来る!)
条件反射的に地面に転がった優だが、
『あぁ、すみません、すみません!』
焦ったような魔人の声と敵意が無い様子を見て、少しだけ警戒を緩める。もっと言えば、今の魔人の言動が優に春野を連想させたからだった。
声は、優のよく知る春野のものよりも少し低い。こうして改めて見てみると、春野の親族――姉や従姉妹などと言われても何ら不思議ではないほど、魔人がまとう雰囲気は春野に似ていた。
『えっと……初めまして! 魔人です!』
そんな魔人の自己紹介に、関西人としてズッコケそうになる優。だが気を緩めるわけにはいかないと、必死になって警戒心を保ち続ける。同時に優が横目に見るのは、蹴り飛ばされた闇猫の方だ。地面に四肢を突いて自分たちを、というよりはお面の魔人を見ているように見えた。
そうして闇猫に強い警戒を示す優の視線に気付いたお面の魔人こと闇猫の半身の少女は、
『お母さんは、動かないでね? 動いたら、殺すから』
そう言って、肉体的な生みの親である闇猫をけん制する。
現状、魔人の少女にとって優先順位は、実は優の方が高い。というのも優が先ほど、「はるの」と明らかに自分を知っているような反応を示したからだ。
精神的な生みの親である人物の記憶を探す魔人の少女にとって、自分が何者であるのかという情報は欠かせない。その手掛かりを、目の前の彼は持っているかもしれなかった。
『えっと、人間さん。あなたは先ほど、わたしを『ハルノ』と呼びました……よね?』
そんな魔人の少女の問いかけで、優の無表情の奥にある羞恥心ゲージは一気にマックスになる。まさか好きだった人を重ねていましたと言うこともできない優としては、
「いや、人違いだ」
と、そう言ってお茶を濁すことしかできない。というより今は、こんなおしゃべりに興じている場合ではないのだ。もし魔人の少女に許されるなら、優としては弱っている闇猫の討伐に向かいたい。
人類の敵を討つ、疑いようのない千載一遇のチャンス。たとえ分の悪い賭けだとしても、人類に“次”は無いかもしれない。であれば、今この瞬間にこそ命を懸ける価値があると優は判断していた。
しかし、そんな優の内心に構わず、自分について知りたいと渇望する魔人の少女は無邪気に優を追い詰めていく。
「いえいえ、そんなことは無いはずです! 確かに言いました、ハルノって!」
少女の発音は、苗字の“春野”というよりは名前としての“春乃”に近い。アクセントが「ハ」にあるのではなく3音共に平坦な「ハルノ」の発音だった。
「わたし、記憶喪失で……。あの猫さんが肉体的な生みの親っていうのは分かるんですけど、この身体のもとになってるマナの情報としての親が分からないんです」
自身を闇猫から生まれた魔人だとさらっと紹介した少女の言葉に優が驚愕したことは言うまでもない。さらに、続いた少女の言葉で、優はいよいよもって驚愕を顔に出すことになる。
「元が特警だったからでしょうか。こう、悪を倒さないといけないと、みたいな気持ちと。それから、その……誰かに『好き』って伝えないとっていう、その気持ちだけがありまして。……えへへ」
「……は?」
表情こそお面で隠れてしまっていて、分からない。しかし、魔人の少女の仕草や笑い方は、優のよく知る想い人と恐ろしいほどに似ている。さらに、もとは特警だったと言うではないか。
ふと思い出す、リカとユートという名の魔獣。人間という濃密なマナの情報が魔獣を乗っ取り、魔人のようにして生まれる現象の存在。それらが一瞬にして優の脳内を駆け巡り、目の前の少女の“来歴”を導く。
(確かに、春野は闇猫と戦った。その時に春野の血を闇猫が取り込んでいてもおかしくない……。だが、常識的に考えて、こんな偶然ある、のか……?)
そう考えて、すぐに理性で否定する優。それは自分の願望でしかないし、そうだとしても、広い日本でこうして巡り合うなどいったいどれほどの“ご都合主義”か。それこそまるで、どこぞの物語のようで――。
「あ」
それは、天啓に近いのかもしれない。優の中で、自分を愛してくれている【運命】と【物語】の女神の姿が思い出される。
科学的な根拠は無い。ただ、世界中に居る天人の周りで不可思議なほどに啓示にちなんだ出来事が起きているのもまた、事実だ。何より一昔前とは違い、この世界には魔法という非常識が存在する。
そして、もし、いま目の前で恥ずかしそうに優をチラチラ見ているこの魔人の存在があの女神の存在によるものだとしたら――。
(さすがにそれはキッツイですよ、シアさん……!)
これは“再会”ではない。目の前にいる魔人は、優が思いを寄せていた“春野楓”ではないからだ。
が、自分なりにケジメをつけて奮闘してきた優としては、この魔人の存在にはただただやるせなさしか感じない。優の決意だけでなく、春野の死すらも冒涜しかねないからだ。
『えと、人間さん? どうかしましたか……?』
「いや、悪い。それより魔人に1つ聞きたいんだが、良いか?」
『あ、はい。どぞどぞ』
いちいち春野に仕草が似ていて、感情の整理が追い付かない優。普段は初対面の相手にため口を使うことは無い彼だが、親しい人――春野に接していた時と同じような口調で話していることにも気付けない。
それでも彼は、目の前にいる魔人に確認する。
「人を食べたことは、あるのか?」
この魔人が人類の敵なのか、どうか。春野とよく似ているだけ。あるいは、春野の残滓を引き継いだだけで、結局はただの魔人でしかないのか。むしろ、今回ばかりはそうであってほしいと願う優に対して。
『ううん。そんなこと、絶対にしません。できません』
声と言葉に確固たる意思を覗かせながら、魔人の少女は首を振る。が、優は魔人を信用しない。
「なら、そのお面の持ち主はどうした?」
魔人が着けているお面は、久遠のものだ。彼女はたとえ未食いでも躊躇なく殺すと、そう言っていた。その久遠が、宝物だろうお面を魔人などに渡すとは思えない。
つまり、久遠を殺して奪ったのではないか。そう考えた優だが、
『お面の人間さんは、この辺りで一番人が居る場所に置いてきました。お寺、だと思います』
彼女の言うことが真実だとして、恐らく常坂家の同情だろうと優は推測する。
『ついでにお面を借りたのは、格好良いからです!』
「……は?」
『ほら、変身ヒーローみたいで格好良くないですか!? 世を忍んで人助け、みたいな!』
お面の奥で無邪気に笑う魔人の少女。その言葉は、彼女が春野のマナを内包しているのだと優を納得させるには十分すぎるものだった。
「……最後に。人を殺さない理由を聞いても良いか?」
『だって人を殺すことは、法律で禁じられていますから! “悪いこと”はしちゃダメです――だよね、お母さん!』
魔人の少女が優に向けて駆け出したかと思うと、手元に黒いマナで創られた警棒を〈創造〉する。そして、油断していた優の顔面に向けてすくい上げるように警棒を振るったかと思うと、
『ナォ!』
優に頭部に向けて振り下ろされていた闇猫の手をはじき返す。
『ありがとうございました、人間さん! ここはわたし……ハルノに任せて、逃げてください!』
先ほどとは違い、日が暮れて真っ暗になってしまった猿広場。たとえ弱っているとは言っても、相手は黒魔獣だ。名前の通り夜闇でこそ真価を発揮する闇猫には挑むべきではないと思える程度には、優に理性は残っていた。
(それにこの魔人なら、今の闇猫くらい簡単に倒せるよな)
むしろこの魔人の少女――ハルノこそがここまで闇猫を弱らせた人物なのだろうと見当をつけた優。このまま魔人に任せれば間違いなく倒してくれるはずで――。
「――ダメだ」
撤退を促す魔人の少女の言葉を、優はハッキリと突っぱねた。
静かに息を吐き、右手に透明なサバイバルナイフを〈創造〉する。
『ど、どうして!? あなたじゃお母さんに勝てません! 逃げてください!』
「断る」
『もう!』
言うことを聞かない優に対して、ついムキになってしまったハルノ。彼女自身も、なぜこれほどまで感情的なってしまうのかは分かっていない。だが、どうしても目の前にいる少年を守らなければならない気がした。
『お母さんも……あい、かわらず、しつこい、よ!』
『ニャ……ニャン!』
先ほどのハルノの一撃で大きな手傷を追ってなお、俊敏にハルノが振るう警棒を避ける闇猫。しぶとく生にしがみつくその姿勢こそ、闇猫を10年以上も生かしてきた本質だ。今や自身よりも圧倒的に高い魔力を誇る“娘”を相手にしても、闇猫は生き残ることを諦めない。
それどころか、隙あらば獲物の喉元に食らいつこうという気概すらもあって――。
『こうなったら言いますけど人間さん、足手まといです! 弱いんですから、さっさと逃げて……あっ!』
『ナゴ♪』
ハルノが優の説得に意識を割いたその瞬間に姿を小さくした闇猫が、その名の通り闇に溶け込む。
撤退するのではない。現状、闇猫も身体の内部に大けがを負っている。この状態で逃げても、ハルノに簡単に追いつかれてしまう。つまりは怪我の治療が必要で、その治療にはやはりマナが必要だ。
ただ、ハルノを襲っても無駄であることはここ1か月で学んでいる闇猫。どういう訳か彼女は、闇に紛れる闇猫の動きを正確にとらえてくる。となると、闇猫の狙いはただ1人。
戦うでも逃げるでもなく立ち尽くす優だった。




