第7話 魔人の姉弟
山籠もり4日目。時刻は昼過ぎ。寝不足による倦怠感と思考の低下を自覚しながら、それでも優は懸命に山の探索を続けていた。
生態系に影響を及ぼすほどの強力な魔獣は、総じて体が大きい。当然、彼らが残す痕跡もおのずと見つけやすくなるのが一般的だ。だと言うのに、昨日と今日とで優が探し回った範囲――テントから半径およそ200m以内――には、それらしき痕跡が見当たらなかった。
それどころか、近場に居た魔獣たちは優を襲って返り討ちに遭ったのだろう。魔獣すらもほとんど見かけず、優は昨日から1体しか魔獣を討伐していなかった。
そして、気になると言えばもう1つ。
(常坂さん、どこで寝泊まりしてるんだ……?)
優の最終試練の監視役としてつけられているはずの久遠の姿が、どこにもないのだ。
いや、姉弟子であれば、優の接近に気が付いて姿をくらましていたとしても不思議ではない。そのため本人に会わないということ自体は十分に考えられる。が、テントを始めとした生活の痕跡は残しているはずなのだ。
(常坂さんの性格的に、試練をサボってるとも思えない……。となると……)
自分が思っているよりもずっと遠い場所、それこそ1つ隣、地名ではなく山としての「嵐山」か、近隣の市街地にある廃墟に潜んでいるか。久遠は女子でもあり、何かと入り用だ。特にトイレ事情などは、男子である優とは比較するべくもない配慮をしていることだろう。
総合的かつ優の希望も込めて、市街地に身を潜めていて欲しいものだった。
(いずれにせよ、常坂さんもすぐには駆けつけられない場所にいるってことだな)
優は、久遠に任されている役目――もしもの時の優の死体回収――を知らない。そのため、彼女が優を監視できる位置に居ると思い込んでいたのだが、どうやら違うらしいことを知る。
つまり、いま強敵と出くわしたとしても、結局は自分1人で対処しなければならないということだ。その事実に優が臆するかというと、そうではない。むしろ、より一層気を引き締めて、探索に当たる。
もとより優は、久遠を頼るつもりが無い。事実、今までの魔獣との戦いの中で、彼の考えの中には一度も久遠を頼るという選択肢が無かった。いや、思いつくことすらもなかった。
それは優が久遠の存在や言いつけを忘れているからではない。こうして落ち着いたタイミングでは、きちんと久遠が居ることを意識できている。
だが、いざ戦闘となると、自分1人でどこまでできるのか。修行の成果をきちんと実感することができるのか。その挑戦に夢中になるあまり、彼の思考における姉弟子の優先度がグッと下がっているだけだ。
おかげで優は、今回の最終試練の目的である“1人での魔獣討伐”や“終始1人で戦う戦術の組み立て”に集中できていると言えた。
と、そうして優が探索の合間の休憩をしていた時だ。どこからともなく、どす黒いマナの波が押し寄せてくるのが見えた。高さは地上1mほど。地面を這うようなそのマナの動きは、優たちもよく知る〈探査〉の魔法だ。
(魔獣が獲物を探してる!)
すぐに判断した優は近くの木に跳びかかる。そして透明なサバイバルナイフを〈創造〉すると木に突き刺し、懸垂の要領で身体を持ち上げた。そうして優が〈探査〉の網から逃れる高さに逃げた直後、足元を黒いマナが通り過ぎていった。
追加の〈探査〉が無いことを確認した優は、地面に降り立ち、素早く駆け出す。方向は〈探査〉の発信源。そこには必ず、魔獣がいるからだ。
これこそが〈探査〉という魔法の弱点と言えるだろう。もし相手に索敵範囲から逃れられれば、一方的に居所を知られてしまう。少し知能のある魔獣であれば、その失敗だけで命取りになる。そのため、小学校の高学年にもなれば、きちんと高さを意識して〈探査〉を行なう授業が行なわれていたのだった。
(つまり、いま〈探査〉を使ったのは〈探査〉の特性に詳しくない……。知能の低い魔獣と見て良いか)
見えない敵について考えながら足音を殺して移動すること10秒ほど。優は〈探査〉の使用者と思われる存在を見つける。木の陰に身を滑りこませて対象を確認してみれば、背中から6本の節足を生やした人型の魔獣――魔人がいた。
身長は120㎝ほど。小学生くらいの見た目をしている。髪は長く、肌の色は植物のような緑色をしていた。ぼんやりとした様子で歩くその魔人を観察してみると、鎌のようになっている右手で左肩を押さえている。背中を丸め、拙い足取りで歩くその様子から察するに――。
(怪我をしている……のか? 戦う前に、もう少し情報が欲しいな)
魔人との距離、15mほど。より多くの情報を求めて木陰から顔をのぞかせようとした優だったが、
「――っ!?」
〈感知〉に反応があったために身をかがめる。直後、先ほどまで優の頭があった位置を鋭い爪が通り抜けていった。
バックステップで距離を取ってみれば、そこには先ほど見かけた魔人より幾分か小さい体躯をした子供がいる。
『あれれ~? どぉして、どおして?』
完全な不意打ちを察した優に小首をかしげるその子供には、左目が無い。それどころか顔の左半分は皮がはがれ落ちており、肉や骨が見えてしまっている。開き切った瞳孔。殺すことに特化した、獣のように鋭く尖った爪。ボロボロの衣服からこぼれ落ちているのは、内臓だろうか。
子供という元気で無邪気な“生”を感じさせる容姿と、明らかな“死”を共存させる存在――魔人の男の子が、そこに居た。
『ユート、殺せた、殺せた!?』
弾んだ声で駆けてきたのは、先ほどまで優が木の影から観察していた魔人の女の子だ。やはり左肩は抉られたようになっており、千切れた肉と骨が袖口から見えてしまっている。
男の子と違って顔は健在だが、目は白く濁っていて、見えているようには思えない。だというのに、離れた場所からここまで、迷いのない足取りで駆けて来ていた。
(この子はどうやって視界を確保してるんだ……?)
優が警戒しながら見つめる先で、2体の魔人が話している。
『ごめんね、お姉ちゃん。ボク、この人殺せなかった……』
『大丈夫、今からリカと一緒に殺して食べよ! ね?』
『お姉ちゃん……! うん! あっ、その前におやつ、おやつ』
ぽっかりと空いた左目の奥から這い出て来た蛆をつまんで食べるあどけなさと、兄妹が行なう会話の内容のギャップ。何より、今からこの小さな姉弟を、殺さなければならないかもしれない。一度に押し寄せる情報量に、優の頭はグチャグチャだ。
それでも優にはまず、確認しなければならないことがあった。
「……君たち、名前は?」
『うん~? 知らないおじさんにはお名前教えちゃダメってお母さんが言ってた』
『さすがユート! もうすぐ2年生、お兄さんだもんね! えらいえらい』
『くすぐったいよ~、お姉ちゃん~』
会話は、通じる。最低限の常識も覚えている。つまり、人としての自我を残している。まだ希望を捨てるには早いと、優は姉弟に視線を合わせる。
「そうか。ユートくんとリカちゃんだな?」
『えっ、おじさん、何でリカの名前知ってるのっ!? キモッ! 不審者!』
“おじさん”や“キモイ”など、的確に優の心を抉ってくる女の子の魔人――リカ。戦う前から大きなダメージを受けながらも、優は引きつった笑顔のまま問答を続ける。
「お、お父さんとお母さんはどうしたんだ? 一緒じゃないのか?」
『お父さんは、お姉ちゃんが殺して食べちゃった!』
『お母さんは2人で食べたよ! ね~?』
そこから、優が聞いても居ないのにペラペラと話し出す姉弟。
この周辺に暮らしていたこと。毎年、近くにある松尾大社に初詣に行っていたこと。この間も家族4人で新年のお祝いに行って、楽しかったこと。今も、2人して春休みの宿題に励んでいること、などなど。
まるで自分が生きているかのように、楽しそうに語る。
『でも~、魔獣が来てリカ達食べられちゃった……』
『そうそう! 急にばぁーって来て、ぐさーって!』
眉尻を下げ、シュンとした表情で語る姉のリカ。一方で、襲われた状況を楽しそうに話すユート。彼女たちの話を受けて、優は2人が正確には魔人ではないことを察する。
(捕食したリカちゃん、ユートくんのマナの影響を強く受けた魔獣なんだな……)
人間を捕食した魔獣が記憶を引き継ぎ、魔法を使えるようになるのはよく知られている話だ。それはつまり、人間が持つマナの情報量が非常に濃密だと言うことになる。
もし魔獣の自我が薄ければ、こうして人間としての情報が前面に出る形で変態することもあると、優は第三校の授業で聞いていたのだった。
『お父さんたち、リカ達のことみてびっくりしてた!』
『そうなんだよ! でも、お父さん、お姉ちゃんのこと殺そうとしたの……。だからボクがえいって!』
人殺しについて、まるで遊びでもしていたかのように無邪気に話す姉弟。
いくつもの想いと言葉を飲み込んだ優は、ユートの頭へと手を差し伸べる。もちろん、いつ反撃されても良いように最大級の警戒を持ってだ。そのうえで、優はユートに伝えたかった。
「……そうか。ユートくんは、お姉ちゃんを守ったんだな?」
優の言葉に大きく目を見開いたユートだったが、すぐに破顔する。
『そうだよ! 格好良いでしょ!』
「……っ! ああ。そう、だな……。お姉ちゃんを……家族を守ったんだもんな。ユートは間違いなく、格好良かった」
『そぉでしょぉ~』
嬉しそうに、優の撫でを受け入れるユート。続いて優は、リカへと視線を向ける。
「リカちゃんも、こんな弟を持って自慢できるな?」
『うん! リカ、ユートのこと大好きだもん!』
自慢げに言ったかと思えば、ユートに抱き着くリカ。思いがけない行動に思わず立ち上がって身構えた優だったが、姉弟は仲睦まじい様子で抱き合っている。
彼らがリカとユートの記憶の残滓――亡霊ではなく、人間であればどれほど良かっただろう。姉弟であること。名前の響き。格好良いという言葉。そのどれもが優の覚悟を鈍らせる。
「……くそっ」
『おじさん? どうかしたの? お顔、怖い……よ?』
悪態をついた優を、弟を抱きながら不安そうに見上げるリカ。悪者から弟を守ろうとするその仕草に、またしても優の顔が歪む。
(――それでも)
威圧感や恐怖を与えないよう改めて膝を負った優は、普段はなるべく変えないようにしている表情に笑みを浮かべる。そして、
「リカちゃん。ユートくんも。そのままジッとしててくれ」
そう言って2人の頭を撫でると、ゆっくりと立ち上がった。
『『……?』』
姉弟が顔を上げた瞬間、2人の背後に回り込んだ優は――瞬時に〈創造〉した刀でリカ、ユートの順に首を斬り落とした。
『『え……』』
姉弟仲良く困惑の声を漏らした次の瞬間には、首が胴体から離れ地面を転がる。
優を見上げる姉弟の顔に浮かんでいたのは、信頼しようとしていた人物による突然の行動が理解できないと言った様子の顔だ。こちらを見上げる姉弟の真っ直ぐな瞳から、優は目を逸らさない。
『なん、で……』
涙と共に発されたリカの言葉を最後に、姉弟は黒い砂へと変わる。
真正面からやり合えば、数の不利を考えても苦戦しただろう。だからこそ、会話で信頼を勝ち取り、隙をついて殺す。客観的に見れば、ひどく合理的な作戦なはずなのだ。たとえそれが、子供の純真さに付け込んだやり方だったとしても。その作戦が、優の意図したものではなかったのだとしても。
1人で、それもマナを全く使わずに2体の魔人を討伐した。
特派員としてはひどく正しい選択だったはずなのだ。
だと言うのに、優の心はこれっぽっちも晴れない。あるいは物語のように、姉弟が「苦しみから解放してくれてありがとう」などと言ってくれれば、どれほど優は救われるだろう。
しかし、現実はどこまでも冷酷だ。今も優のまぶたの裏には姉弟の絶望の表情が張り付いて、離れない。どうして騙したのか。どうして殺すのか。そう聞いてくるようなリカの最期の言葉が、耳の奥で反響したままだ。
「くそ……っ」
世界と、不条理と、他でもない自分自身への憤りを、優は空に向けて吐き出すのだった。




