第3話 姉弟子からの餞別
優の最終試練場所となる、『松尾山』。標高は300mもない、小高い山だ。
苔が有名な寺があったり、渡月橋や嵐山の市街地を見下ろせる広場があったりする。付近には美しい竹林もあり、辺り一帯は竹取物語の舞台となったとも言われる場所だった。
そんな松尾山のハイキングコースの入り口にやってきた、優と久遠。背後では、2人をここまで送迎した沢渡がトランクから2人の荷物を下ろしている。
「さ、さっきの話、ですけど……」
人の手を離れ、里山からただの山になって10年。荒々しくも美しい自然を取り戻す松尾山が放つ雰囲気に飲まれていた優に、今度は久遠の方から話しかけた。
「あっ、はい。どうかしましたか、常坂さん?」
「あぅっ……」
真正面。振り返った優が向けてくる真っ直ぐな視線にたじろいだ久遠だったが、先ほど車内でしていた話――未食いと呼ばれる魔人――について、自身の考えを述べた。
「た、確かに、人を殺していない魔人さんも、居るんだと思います。で、でも、人を殺して食べるのは、ま、魔獣や魔人の本能……。な、何かの拍子に、人を殺すことも、十分にあると思います」
猫背で、視線を泳がせながらも、きちんと私見を口にする久遠。
「わ、私は、自分が見逃した魔人さんに、人を殺して欲しくありません。罪を犯して、“人”じゃなくなってしまった自分を、知って欲しくないです。だ、だから――」
この時ばかりは優の顔を見て、自分なりの考えを伝える。
ここに至るまで、久遠は姉弟子として、優に何もしてあげられなかった。だからこそ、最終試練に臨む前に、弟弟子である優の迷いを払拭できたらという、久遠なりの“先輩面”だった。
「――だから私は、たとえ相手がどんな魔人さんでも、き、斬ります。その人が、罪を犯す前に……。人としての尊厳を持っているうちに、殺します」
そうすれば、その魔人が将来奪うことになる命だけではない。ほかでもない、魔人本人の尊厳を守ることができるから。
拙くも、なるべく丁寧な説明を心掛けながら、久遠は魔人という存在について迷っているように見えた優に、道を示す。
久遠は殺生が嫌いだ。魔獣も、魔人も、殺したくはない。久遠にとって、魔獣たちと人の間に“価値”の差などないからだ。等しく生き物であり、家族であり、尊いと思っている。
確かに、魔獣たちは人を殺して食べる。だが、生き残るために誰かを殺して食べる“狩り”は、自然の摂理だ。確かに人類にとっては脅威であり常坂家が憎む“悪”だが、それはあくまでも人間の都合でしかない。生き物として見たとき、魔獣も魔人も悪くないと、久遠は本気で思っている。
それでも彼女が無理を押して魔獣たちを殺すのは、大好きな生き物たちを助けたいからだ。
常に飢餓感に見舞われ、食べ物を探し回る。そんな魔獣や魔人が、久遠には苦しそうに見えた。理性を失い、凶暴性だけが露出する魔獣と魔人たちが、可哀想に思える。
(本当はみんな。こんな私にすら寄り添ってくれるくらい、優しいのに……)
生き物が生来持つ“優しさ”を失っていく彼らを、久遠は見逃せない。どれだけ食べても満たされず、それでも生き物として、苦しみながら生きようとしてしまう魔獣たちを――家族を、救ってあげたい。
だから彼女は、魔獣や魔人を殺し続ける。
現状、魔獣化した動物や人を元に戻す方法は見つかっていない。であれば、魔獣たちを苦しみから救う方法が、久遠には“殺すこと”以外に分からない。その代わり、殺すときは可能な限り一撃で。もうこれ以上、痛みも、苦しみも感じなくて済むように、一刀で。
――生き物を殺しているのは自分ではない自分だと、そう必死に言い訳をして。
常坂久遠は、魔獣と魔人を殺していた。
「ま、魔剣一刀流は、人を活かす剣です。そ、それを私は、あ、相手を思いやる剣だと思っています。それは、魔獣や、魔人さん相手でも、変わらない……はずだから……」
上手く伝わっているかどうか不安になって、結局は優から目をそらしてしまう。気弱で、それでいて誰よりも優しく、強い。そんな姉弟子の言葉を、優はしっかりと胸に刻みつける。
優も、いま久遠が語った内容が、最終試練に向けた餞別、あるいは月の型習得に向けたヒントであることを理解していた。
(人としての尊厳を持っているうちに殺す、か……)
思い出すのは、初任務だ。片桐紗枝だった魔人を討伐した際に〈物語〉の権能で流れ込んで来た、彼女のマナの記憶。その中に、飢餓感に堪えられずに人を食べたことに対する後悔の念があった。その絶望と世も呼べる後悔をきっかけとして、彼女は心までもが“人”でなくなってしまっていた。
先日の巨躯の魔人・前田敏生もそうだ。彼の場合は、無自覚のまま、人を殺して食べることに忌避感を覚えなくなっていた。
(魔獣化すると、本人の意図しないところで、“人でなし”になっていく。そして、そのことにすら気付けなくなっていく……)
それを思うと、確かに、久遠の言うことももっともなように思える。が、それでも優は、きっぱりと割り切ることができない。久遠が持つ優しさや強さを、持つことができない。どうしても、人を殺していない魔人を殺すことが、殺人に思えて仕方なかった。
と、そうして久遠が優に自身の考えを伝え終えたところで。
「――久遠お嬢様。神代さま。そろそろ」
タイミングを計っていたらしい沢渡から、2人に声がかかる。そろそろ最終試練を始めないと、と言外に伝える沢渡に、
「「あっ、はい」」
奇しくも、久遠と優の声が重なる。そんな2人を見る柔らかな沢渡の笑顔に声を上ずらせた久遠が、
「え、えっと。それじゃあ途中まで、案内しますね。……よいしょっ」
荷物が入った30㎏オーバーのバックパックを背負う。最後に、側頭部にあったお面を被ると、
「――それじゃあ、ついてきてください。途中までわたしが案内して、その後はお兄さんだけでどうにかしてください」
そう、ざっくりとした説明を終える。
「どうにか……。了解です」
姉弟子の言葉に頷いた優も、膨らんだバックパックを背負って準備を整えた。
「お嬢様。神代さま。――ご武運を」
そんな沢渡の見送りに頷いてみせた2人は、久遠の先導のもと、松尾山へと踏み入って行く。
今日のために再整備されたのだろう、ハイキングコース。獣道よりも格段に歩きやすい道を行きながら、優は考える。
(もし、この先、未食いの魔人と会った時。俺は――)
このまま特派員を続けていけば、必ず、未食いの魔人と出会うことになる。
自身に敵意を向けないだけでなく、人類に敵意を持たない。理性を残した魔人という名の“人”を相手にした時、果たして自分はどんな選択をするのだろうか。
その問いに彼が答えを出す日は、優が思っていたよりもずっと早く、やって来ることになる――。
入り口から歩き始めて30分ほど。かつて登山客が休憩する場所として使っていた、少し開けた場所まで来たところで久遠が別れの挨拶をする。
「それでは、わたしはここまでで。頑張ってくださいね、お兄さん」
「はい。常坂さんも、お気をつけて」
互いの健闘を祈りながら別れる流れ。そう思った優だが、なぜか久遠は立ち尽くしたままだ。
「……えっと、常坂さん?」
どうかしたのか。尋ねた優に、「あっ、はい」と素を見せながら答えた久遠。そのまま転身し、その場を去ろうとしたところで、またしても足を止めた。
そして、ここからは姉弟子としてではない、1人の友人として。そう言うように、お面をそっと顔の横にずらす。
露わになる、気弱な瞳。どうしたのかと見てくる優と目が合って「あ、う」と声を漏らしたが、やがて。
「――ほ、本当は伝えるべきではないのかもしれませんが」
わずかにためらうような間を置いて、久遠が口を開いた。
「こ、ここ数日、魔獣を含めた動物さんたちの動きが活発化しています。お、恐らく、この辺りに強力な魔獣さんや、魔人が居る……。も、もしくは、迷い込んできたのかもしれません」
それは長年、外地で暮らし、動物と触れ合い、魔獣を狩ってきた久遠の単なる勘でしかない。それでも、自身の剣士としての勘を信じる久遠は、大事な弟子である優に警告をする。
「お、お兄さん……。確かに試練は、た、大切です。でも、命以上に大切なものはありません。なので……」
「もし俺ひとりでは敵わないと思った相手が来たら、逃げる。それでいいですか?」
わざわざ久遠が言いに来た時点で、彼女が何を言わんとしているかを察した優。分かっていると久遠の言葉の続きを水から言葉にしたのだが、久遠はブンブンと首を横に振った。
「ち、違います! 逃げても、じょ、状況は変わらない、ので……。なので、わ、私に、知らせてください! お兄さんの代わりに、“わたし”が対処します、から……!」
ただ優のことを思って、悪気なく言った久遠。だが、その言葉は優の心に深く突き刺さる。共闘ではなく、単身で対処すると言った久遠。彼女のその言葉は、優にとって、自分が守られる存在――弱い存在――でしかないことを如実に示すものだった。
しかし、優はここに強くなりに来た。
守ってやると言わんばかりの久遠の言葉に、素直に頷くわけにはいかない。もちろん、自分を思ってくれる久遠の気持ちはありがたいが、同時に、余計なお世話でもある。
「…………」
頷くでもなく首を振るでもなく、むっつりと黙り込んでしまった優。
眉をハの字にして彼を見遣る久遠も、剣士として、優の気持ちは十分に理解できる。それでも、彼女にとって優の育成は、シアや天への恩返しでもある。
(ましてやお兄さんは〈月光〉すらも習得していない状態……)
優が死んでは、それこそ大切な友人たちに顔向けができない。
「か、神代さんやシアさんのためにも、お、お兄さんをここで死なせるわけにはいきません! ど、どうか、理解してください! で、ではっ!」
優にとって恐らく何よりも大切だろう人物を引き合いに出しながら、急いでその場を後にする久遠だった。




