第1話 試練の始まり
最終試練が始まるその日の朝も、優は変わらなかった。朝5時半に起床し、支度を済ませてからランニングと筋トレ。ジムにあるシャワー室で汗を流した後、朝食を済ませる。その際、どこから聞きつけたのか、先輩弟子たちからの励ましの言葉を受け取ってから、自室へ。
『必要なものはコチラで用意するので、お兄さんは道着だけで来てください』
そう久遠からは言われているため、インナーと道着だけで部屋を出る、直前。これまではアラームとメモの役割以外を果たしていなかった優の携帯が、通知を知らせた。
(誰からだ……?)
ロック画面で確認してみれば、メッセージアプリからの通知だ。春樹か、シアか。家族、それこそ、天からの連絡かも知れない。
これから5日間、身一つで外地での生活をしなければならない優。そこには当然、魔獣が居て魔人も居る。無事に帰って来られる保証など、どこにもない。試練の後、このメッセージの送り主に返信できる機会があると悠長に考えることなど優にはできなかった。
そのため、最後になるかもしれないメッセージを確認しようとして、
(――いや。ダメだな)
優はロック画面のまま携帯を消灯する。それだけでは足りないと、電源を切ることまでしてみせた。
修行中は、外部との連絡の一切を禁止されている。それが例え最終試練――命を落とす可能性が高いとしても、だ。もちろん、携帯を没収されたり、通信したかどうかを確認するなどプライバシーが侵害されたりすることは無い。
だからこそ、門下生たちには自制心が求められる。
“外”にいる知り合いと連絡を取りたい。楽に、安心したい。そんな弱さと常に向き合わなければならない。そして、試練を前にして緊張と不安が高まっている今、もし甘えるようなことをすれば、
(なんとなく、これまでの修行が全部無駄になる気がする)
ここ3週間、月の型の修行を通じて、優は自分と向き合ってきた。
幼少から特派員を目指していた優。中・高の進路決定の時も、自身を顧みることは無かった。そのため、ここまで自分自身と向き合ったのは、初めてのことでもある。
その中で見えてきたのは、自分の“もろさ”だ。自身の力不足を知っているからこそ、すぐに他人に頼ろうとしてしまう。甘えようとしてしまう、そんな考えの甘さだ。そうした他者依存の思考と精神的なもろさが、先日の魔力不全につながっていたのだと、今なら分かる。
もちろん、時には他人を頼ることも必要であることは、優も重々承知だ。いや、自分の場合はそちらの機会の方が多いだろうと、優は考えている。
(――だが)
いつしか、“頼ること”を前提にしてしまっていた。頼れる妹と幼馴染と共に入学して、その後すぐにもう1人、天人という絶対的な存在と知り合ってしまった。そうして知った己の力不足から目をそらすために、自分は他者を頼ってしまっていたのではないか、というのが今の優の考えだ。
そうして自身の弱さから目を逸らし続けたからこそ、大切な人を失った。
しかし、もう、優は迷わない。たとえどれだけ行く先が暗くとも、進むべき道は、月明かりが照らしてくれる。
(春野。俺は前に進むから。だから、見ていてくれ)
電源を切った携帯を置いて、今度こそ優は部屋を後にする。
「――行ってきます」
メッセージをくれた“誰か”に向けて、必ず帰って来る。メッセージを返すという意思を込めて、別れの挨拶を告げるのだった。
優が集合場所である門の前へと向かうと、もうそこには久遠の姿があった。
「お待たせしました、常坂さん」
「い、いえ! ……ま、まだ集合10分前です、ので」
軽く挨拶を交わした後、優は1つの大きなバックパックを久遠から渡される。
「これ……。大討でも使った登山用のカバン、ですか?」
「は、はい。な、中には5日分の食料と水。あ、あと、寝袋、簡易テント・トイレなどが入ってます。か、身体に合うように、今のうちに肩ひも、とか、腰ベルトの長さを調整してください……ね」
大規模討伐任務で見た巨大なバックパックをも思い出しながら、ひとまず優は背負ってみる。
(めちゃくちゃ重いな……!?)
余裕で30㎏はありそうなバックパック。これを背負って歩くだけでも、十分な筋トレになりそうだ。
言われた通りに各種ひもの長さを調整しながら、優は監督者として同伴すると聞いている久遠へと目を向ける。
今日の彼女は、全身真白な姿をしていた。白無垢とも、白装束とも呼べそうなその格好。どちらを意識したかで、その意味合いも真反対になるような姿と言えるだろう。
久遠を象徴する狐のお面は、今日は側頭部に付けられている。そのため、久遠の素顔がさらされているのだが、
(やっぱり、お面を着けているときとは、だいぶ印象が違うよな……)
見るのはかなり久しぶりとなる。弱気そうに垂れた目元。たどたどしい話し方に、猫背。相変わらずの頼りない印象を、優に与える雰囲気をしていた。
そんな彼女の足元にも、優と同じバックパックが置かれている。それが意味するところは――。
「……まさか常坂さんも山籠もりをするんですか?」
「えっ!? あっ、はい。わ、私は、お兄さんの監視役、ですから……。うっ、重いぃ……」
言って、自身もバックパックを担ぎ上げた久遠。優同様に、ひも類を調整していく。
彼女もまた、優の監視をするついでに、平蔵から山籠もりを命じられていたのだった。
ただし、優と一緒に行動するというわけではない。あくまでも一定の距離を保ちながら、優の動向を探るだけだ。これまでのように魔獣を間引いて手助けすることも、窮地に陥って助けることも許されてはいない。久遠に与えられた役割は、もしもの時に優の死体を持ち帰ることだけだった。
(まぁ、魔獣さんの方からこっちに来たら、倒さないとなんだけど……)
久遠が、今なお苦手としている魔獣討伐に想いを馳せていると、腕に巻いていたスマートウォッチが鳴った。
「は、8時……。そろそろお迎えが……あっ、来ました」
久遠が見ている方向を優も見てみると、黒塗りの高級車が1台、石畳を走って来る。その運転席に座っているのは、優の師でもある沢渡だ。
「あ、あの車に乗って、松尾山の登山口というか、トレッキングコースの入り口まで行きます。ちょっと、遠いので……」
「了解です」
一応、常坂家の敷地内からも試練の場所となる松尾山を見ることはできる。が、どうやら車で移動しなければならない距離らしい。
(つまり、帰って来る時はかなりの距離を歩かないとってことだよな)
それだけではなく、何かあってもすぐに帰ることができない距離であることが伺えた。
優たちの前で停車した車。その運転席から降りて来た沢渡が、まずは久遠へと目を向ける。
「ご苦労様です、久遠お嬢様。ひとまずお2人の荷物はトランクの方へお積みいたします」
「は、はいっ。よ、よろしくお願いします……。お、お兄さんはコチラに」
うつむきながら沢渡をチラチラと見て、消え入りそうな声で言った久遠。彼女はそのまま後部座席のドアを開けると、優に乗り込むよう勧めてくる。
「ですが、常坂さん。沢渡さんじゃなくて俺が荷物を――」
「お気になさらないでください、神代さま」
後輩にあたる自分が荷物を積み込むべきではないか。そういおうとした優に、沢渡が優しい笑みを向ける。
「お嬢様と共に、車内でお待ちください」
こうハッキリと言われてしまっては、これ以上の問答も時間の無駄というものだろう。
「――はい、よろしくお願いします」
試練前で神経質になっている自分たちを労わってくれる沢渡の厚意に甘えることにして、優は車内に身を滑りこませる。
背後でトランクの積み込みが行なわれる音と振動を感じながら、優はたった今、隣に座った久遠へと話題を振る。ここ最近、優が意識して行なうようにしていた自主的なコミュニケーションの一環だった。
「そのお面、格好良いですよね、変身ヒーローみたいで」
「……え? あっ、はい。おじいちゃ……し、師範がくれたもの、なんです」
まさか優から話しかけられるとは思っておらず、声を上ずらせながらもどうにか返答した久遠。ただし、後半。お面に触れながら語ったその表情は、柔らかなものだ。
「な、夏休み。お、お兄さん達と任務、した……じゃないですか。あ、あの時、お面、壊れてしまって」
「そういえば……」
久遠に言われて、優は改めて夏休みでの初任務を思い出す。
そもそもの始まりは、遺品回収だったはずだ。唐突に出現した魔獣たち――のちに天人・モノの策略だと判明した――によって、壊滅的な被害を受けた小さな集落。そこにある、長嶋家の両親の捜索・遺品回収、及び、周辺調査が、優たちが第三校から請け負った任務だった。
しかし、“いつメン”だけで向かうには、少々心もとない。そんな中で、当時は編入したてだった常坂久遠と、西方春陽を加えた6人体制で任務に臨んだ。
しかし、その調査の過程で、3体もの魔人と出くわすことになった。
愛する娘のために第三校の機密資料を持ち出そうとした、男の魔人。また、もとは片桐紗枝という名の特派員だった、女の魔人。そして、のちに巨大化することになった触手の魔人。
その触手の魔人との戦闘の中で、優は久遠のお面が割れる瞬間に立ち会っていた。
(あの時の青ざめた常坂さんを見れば、この人にとってお面がどれだけ大事かって言うのは、俺でも分かるんだが……)
あの時、久遠がお面を「お守り」と言っていたことを思い出す優。
(それに、お面が無いと魔人を斬れない、みたいな話もしてたような……)
そうした事柄や持ち前のフィクションの知識から、ようやく久遠にとってのお面の意味を推測できるようになる。つまり、“久遠が別の人格を創り出しているのではないか”というものだ。荒唐無稽な話だが、この世界にはマナがあって、神様も実在している。
何よりも、優は今の久遠とお面を被った久遠の差をその目で見ている。
(あり得ない話じゃない、か……)
なぜ、もう1人の人格を創り出すようなことになっているのか。その個人的な事情に踏み込むべきではないことは、優にも分かる。その代わりに彼が久遠に尋ねたのは、彼女が魔人を斬れないと言ったその理由だ。
――“敵”である魔人を斬れない。
少し前の優なら、久遠の言葉の真意を探ることは出来なかっただろう。
しかし、魔人マエダと出会い、彼がもたらしてくれた情報がある今なら、思い当たる可能性があった。それは――。
「常坂さん。“未食い”って言葉、知ってますか?」
人を殺さず、食べず、一般人と変わりない生活を送る。そんな、魔人化してしまっただけの人の存在について、聞いてみるのだった。




