第0話 努力と嫉妬
3月25日。優の最終試練が始まろうとしていた、その日。
遠く離れた兵庫県・尼崎市にある広大な敷地を有するショッピングモール跡地に、男女2人の天人が居た。両者ともに黒髪。青年が赤い瞳。少女が深い紺色の瞳の色をしている。
2人が着ているのは、特派員の制服である学ランだ。防刃・防熱・防水性に優れ、耐久性もある黒い服。それを着ているということは、2人がこれから本格的な魔獣の討伐を行なおうとしていることを表していた。
時刻は、まだ日も登り切らない早朝。大規模討伐任務でもそうだったように、視界が利く日中でなるべく長い時間探索するために早朝から行動する。それは、まだ“仮の”特派員である2人にとっても常識となっていた。
「ふぅー……」
そのうちの1人、艶のある黒髪に濃紺色の瞳をした少女が、深く長く息を吐く。少し前までは白んだその吐息も、今は無色透明だ。
(春、ですね……)
否が応でも進んでいく季節の流れを敏感に感じ取る天人の少女。
これから彼女は、相方の青年と共に魔獣を討伐することになっている。1つ間違えれば簡単に死んでしまう魔獣討伐。また、春先とはいえ1日で最も気温が低い早朝だ。
寒さと恐怖心から思わず身震いしてしまった彼女は、胸元の内ポケットからある者を取り出す。それは携帯用カイロ――ではなく、普段使いしている携帯だった。
慣れた手つきでメッセージアプリを開いた少女は、凍える指で自身のプロフィール画面へと跳ぶ。そのプロフィール画面のヘッダーには、女性の天人を含めたセルメンバー4人で撮った写真が設定されていた。
自撮りしたアングル。先頭に居るのは、写真慣れした笑顔を見せる神代天。その横に瀬戸春樹が並んで、同じく笑顔を見せている。そんな2人の背後で驚いた顔をしているのが、自分。そして、一番遠い位置でぶっきらぼうにピースだけをしているのが、神代優だった。
三校祭1日目の体育祭で撮ったその写真は、その天人にとってかけがえのない宝物だ。その写真を見るだけで、不思議と勇気を貰える。気づけば、彼女の震えは消えていて、携帯画面を見つめるその口元には柔らかい笑みが浮かんでいた。
と、そうして少女が討伐前の心の準備をしていた時だ。
「――シア。夜明けだ。そろそろ行くぞ」
相方の青年が、ズボンのポケットに手を突っ込みながら少女の名前を呼ぶ。
「あっ、はい! すみません、ザスタさん。すぐに準備をしますね」
青年に詫びを入れながら、任務の準備を進めていくシア。
シアとザスタ。国立第三訓練学校の9期生が誇る2人の天人は、今日から、このショッピングモール跡地に巣食う魔獣・魔人の討伐任務を行なう。いや、正確には、この任務に単身で挑もうとしていたザスタに、シアが無理を言ってついてきた形だった。
遡ること、少し。シアは予定通り、友人の羽鳥梨央や渡辺晴涙らとキックボクシングに励んでいた。目的は主に、反射神経と基礎的な体力向上だ。もし今後、“何か”があった時に先に動くだろう優に少しでも食らいつこうとしてのことだった。
その点においては、キックボクシングはかなり最適だったと言えるだろう。
渡辺の伝手を頼って紹介されたそのジムはかなり“ガチ”で、たった2時間のレッスンでシア達は立っていられないほどの疲労度になっていた。しかも、少し休憩しただけで「特派員の卵ならまだイケるでしょ」という謎のノリで、さらに肉体を追い込まれる。
レッスン終わりには、第三校の寮まで車で送迎してもらわなければならないほど、クタクタにされる3週間だった。
それでもシアが音を上げなかったのは、友人が一緒に居たことが大きい。しんどい、しんどいと言いながらも、絶対に立ち上がることをやめなかった友人たち。そうして頑張る友人の姿に、シアが触発されたことは言うまでもない。
ジャージをしぼることができるほどの汗をかき、筋肉痛を訴える筋肉にまだイケると言い聞かせて、下半身を中心に苛め抜いた。また、瞬発力と共に反射神経も鍛え、一般人の“並”程度だった測定スコアを、アスリートの“下位”あたりにまでできた。
少しずつ、少しずつ実感する成長。
『しんどいけど、楽しいね!』
大の字になって荒く息を吐きながらそう言って笑う羽鳥に、シアも笑顔で頷くことができるほど、充実した日々だった。
しかし、そんな日々が3週間ほど続いた頃、寮の自室で汗を流していたシアはふと、思ってしまった。
――これだけで、良いんでしょうか?
と。
確かに自分は成長している。しかし、それは常坂家で修行をしている優も同じことだ。
シアも、久遠と、彼女が扱う魔剣一刀流の凄さをその目で見ている。そして今、詳細は分からないが、優も久遠と同じ領域に達しようとしているらしい。シアは、たとえどれだけ短い期間であっても、優が何の成果も出さずに帰って来るとは、これっぽっちも思っていなかった。
そして、そんな優の急成長を支えているのはシアではなく、久遠である。その事実を改めて思い知らされたシアの心に、鈍い痛みが走る。
(私。また、常坂さんに嫉妬してしまっています……)
ユニットバスの湯船につかりながら、痛みを堪えるように胸元で拳を握りしめるシア。
(このままだと、今度は常坂さんが……)
自身の無自覚の嫉妬が、春野楓を殺したと思っているシア。今度は久遠にその暗い感情が向いていることを自覚する。
その原因が、天人にもかかわらず、人を――神代優を――好きになってしまったことにあることも、シアは理解しているつもりだ。この恋慕を捨て去ることが現状打破のもっとも簡単な方法であることも、理解している。
しかし、先日つい口走って告白して、優から色よい反応が返ってこなかったこと――フラれてもなお、未だに想いを引きずってしまっている。
どんな時でも揺るがない、聞くだけでシアを落ち着かせてくれる声も。冷静でいることに努めようとする努力が見える無表情な顔も。それでも時折見せる些細な表情も。好きで、好きで仕方ない。
だって好きなものは仕方ないのだと、シアとしては大声で叫びたい。人として、生物として、肉体を持ってしまった以上、もうどうすることもできない恋愛という名の繁殖欲。その押さえ方を、シアは知らない。
(本当に……。本当に! 心って、言うことを聞いてくれません……)
天井を眺めながら、シアがほぅっと息を吐く。
(他の天人の皆さんは、そんなこと無さそうなのに……)
シアが知る限り、天人の惚れた腫れたという話をほとんど聞いたことが無い。夏休みに一度、コウという天人に求婚されたことはあるが、果たして彼が今の自分のように思い悩んでいたのだろうかと思うと、なんとなく違うような気もする。
天人には繁殖の欲求が低いというのは、恐らく事実だというのがシアの認識だ。実際、第三校に来るまで――神代優に出会うまでは、恋愛感情など微塵も理解できる気がしなかった。にもかかわらず、このありさま。
「これじゃあまるで、私がエッチな子みたい……――っ!?」
思わず漏れてしまった声に、全力で首を振るシア。このままでは良くないと湯船から勢いよく立ち上がった彼女は、風呂の栓を抜いてシャワーを浴び始める。
自身の想いに見て見ぬふりをすれば、春野と同じことが発生する可能性が高い。結局は、上手く心と折り合いをつけなければならないと、髪を流しながら考えるシア。
(結局は私が弱いから、強い常坂さんに嫉妬してしまっている……はずです)
シャワーを止め、天然由来の成分で作られたシャンプーで髪の汚れを洗い落としていく。
(……常坂さんにあって、私にないもの。それこそが、今の私に足りないもの。弱さの正体のはずです)
では、それは何なのか。やはり技術なのだろうと、シアはすぐに思い至る。ただ、技術は一朝一夕で見に着くものではない。天のような例外を除いて、時間をかけて築き上げてきた理論と、その理論に合った肉体を手にしてこそ身に付くものだ。
いまからシアが何かの技術を身に着けようとしても、春休みが終わるまでには間に合わない。
では、春休みの残り少ない期間で自分がより“強く”なるためにできることは無いだろうか。髪を洗う間も、リンスで栄養を与えながら保湿する間も、身体と顔を洗う間も考え続けたシア。
彼女が答えを出したのは、風呂から上がり、眠る前の肌のケアのために化粧水を手にした時だった。
「――実戦経験!」
まさに、天啓のようなひらめきに、声を弾ませるシア。
戦闘への慣れ。あるいは知識だけでなく、経験としての観点から魔獣の動きを知る。それこそが、今の自分にできる最大限の努力では無いだろうか。いや、そうに違いない。シアは、こうと決めれば、こうと思い込むタイプの人種だった。
ただ、現在、シアの所属するセルメンバーは散り散りになっている。優は常坂家。春樹は首里とどこかへ出かけており、天に至っては行方不明の生死不明。
ならば単独で魔獣討伐へ、と思えるほど、シアは勇敢になれない。また、羽鳥たち一般の友人を誘うには、啓示の影響が心配だ。
(となると、天人ということに……)
そもそもの数が少ないこともあって、シアには天人の知り合いが少ない。
真っ先に思いついたのは、モノだ。しかし、シアからすれば論外だ。あの銀髪の天人には良い思い出が無く、信用することができない。何より、優にちょっかいをかけているらしい。
(い、色仕掛けもしてるみたいですし……っ!)
シアとしては、そんなモノに借りを作ることにどうしても抵抗があった。
次に思い浮かんだのは、体育祭の時にシアに強烈な印象を残した天人・シフレだ。ただし、西方春陽の義理の姉でもある彼女はシアに強い敵意を持っている。協力を申し出られるような間柄ではない。
「と、なると……」
一応の同級生で、仮免許試験では魔法を交えた間柄でもある。暇さえあれば任務に赴き、9期生だけでなく第三校でも屈指の魔獣討伐数を誇る人物。彼こそ、【試練】を司る男神・ザスタだった。
そうして、ザスタの予定に合わせる形で、このショッピングモール跡地までやってきたシア。
(優さん。私、もっともっと、強くなります。だから――)
各種準備を整えたシアは、最後、普段使いの携帯をカバンにしまう際、
(3月25日)
詩愛(シアです!):『これから任務です。心配しないでください』
“セルメン”のグループチャットにそんなメッセージを残して、立ち上がる。そして、きっと他の3人が見てくれるだろうその携帯へ向けて、
「――行ってきます!」
そう言って、背を向けるのだった。




