第7話 外から見る景色
〈感知〉を使いこなせるようになったばかり。そんな自分が外地での単独行動などできるのだろうか。どうしても拭いきれない不安を抱えたまま、それでも優が安全を保障されていた常坂家の敷地から一歩外に踏み出した時。
そこにはいつしか春めいていた京都の姿があった。
まだ三分咲きほどだが山や川が美しいピンク色を映し始めており、どこからか飛んでくる桜の花びらが優の頬を優しく撫でる。
「いつの間に……」
目の前に広がる鮮やかな“春”の気配に、ぽつりと言葉をこぼす優。彼がここに来た時、季節はまだ冬だった。それからまだ2週間しか経っていないというのに、がらりと印象を変えた嵐山の風景に、優は開いた口が塞がらない。
春めいたのは景色だけではない。まだまだ肌寒さを残していたはずの気温もいつしかなりを潜めており、肌着と道着だけでも十分に過ごしやすい気温になっていたのだった。
(景色も、気温も。こんなに分かりやすく変わってたのに、気付けないなんて。俺、まだまだ視野が狭かったんだな……)
自身の視野狭窄を反省せざるを得ない優。初めての独り暮らし。優にとっては新しいことばかりで、目の前に次々と現れる課題に追われる日々だった。そんな目まぐるしい日々の中で、いつの間にか余裕を失っていたらしい。
大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着けた優。
客観的に自分を見る余裕が生まれた優が改めて春の京都の姿を見てみれば、春の日差しも、温もりのある風も。通りから抜けて見える大堰川のきらびやかな水面も。その全てが優しく、自分を受け入れてくれているような気分になる。
もちろん自然に意思はなく、それは優の思い込みでしかない。それでも、つい先ほどまで優の中にあった冷たい緊張は、雪のように解けていたのだった。
「……よし」
軽くなった心と身体で、今度こそ優は歩き出す。
彼が今いる場所は、嵐山商店街と呼ばれていた場所だ。渡月橋から数百メートル続く目抜き通りで、魔獣が出現する以前は多くの飲食店・土産物店が並び、観光客で栄えていた。中でも、京福電気鉄道嵐山本線、通称『嵐電』の終着駅である嵐山駅。その立派な朱色の駅舎は、商店街のトレードマークとなっていた。
そんな嵐山商店街も、今は閑散としている。一方で、“荒廃した”と表現するには、まだまだ建物の多くが現役を保っていた。
その理由は、常坂家の門下生たちが修行の一環で周囲の魔獣を掃討しているからだ。
優もいま現在こうして放り出されているように、魔剣一刀流は修行の過程で敷地周辺でも修行を行なう。自然、野生動物たちは人を怖がって近寄らず、近づいてくる魔獣も門下生たちによって討伐されてしまう。そのため、建物が獣害を受ける機会が極端に少なくなっていた。
特にその傾向が顕著なのが、優と久遠が使った阪急電鉄の嵐山駅だろう。
優が駅に降り立ったその時に感じた、小綺麗さ。その理由こそ、常坂家の門下生たちが日々、清掃と修復に勤しんでいるからだと優は門下生たちから聞かされていた。
「『お嬢が帰っていらした時にみすぼらしいままだと殺される』……か」
原型を保つ嵐山商店街の街並みを眺めながら、優はここ最近の交流の中で聞こえてきた久遠の話を思い出す。
ここ数日、優が門下生たちと話す中で明らかになったのは、全ての型を極めた久遠が門下生たちの畏敬の対象になっていることだ。それも、「すごい」「強い」などの好意的なものではなく、「怖い」「よくわからない」といった負の印象を多く聞いていた。
(確か、大師範……常坂さんのお祖父さんから、常坂さんに話しかけるなって言われてるんだったか?)
門下生が久遠に話しかけることが“禁忌”であることをつい最近になって知った優。話を聞いた門下生たちはむしろ優に、久遠の人となりを聞いて来ることの方が多かった。
(あの常坂さんが、掃除のし忘れくらいで怒るとは思えないけどな)
門下生たちの中にある“常坂久遠”の像と、自分の中にある久遠の像。両者の間にある違いが少し面白くて、思わず口の端を緩める優だった。
そうして始まった、30分間の嵐山商店街の散策。
(魔法は使えないから、目と耳。何よりも〈感知〉で周囲をさぐる、と……)
優は師範である沢渡に、なるべく〈探査〉を使わないように言われている。
その理由は、もちろん、外地での魔力切れを防ぐためだ。
沢渡もまだ、優が〈感知〉状態を維持できるようになって日が浅いことを知っている。ある種、〈感知〉の極致である〈月光〉ですら、1日中維持すると4分の1ほどのマナを使うことになる。まして〈感知〉を覚えたての優は、夜の時点で8割ほどのマナを使っているのだ。
そんな状態でもし魔法を使用する(=マナを減らす)ことがあれば、十中八九、魔力切れで倒れることになる。しかも優は、道場に来て初めて外地で単独行動をする。緊張で普段より〈感知〉のマナを使い過ぎることも予想された。
だからこその、〈探査〉禁止令だ。
沢渡は今日、緊張でマナを使い過ぎた優が魔力切れで倒れることを想定している。そのため、優には密かに2人の門下生が護衛としてついている。その点。優に〈探査〉を使用させないのは、優に「近くに仲間がいる」という安心材料を与えないためでもあった。
ただ、沢渡たちにとって予想外だったのは、優が外地での単独行動に対してほとんど緊張していないことだろう。それについては優自身も驚いていて――。
(俺、想像以上に落ち着けてるな)
嵐山商店街の入り口にある渡月橋で1人。足元を流れる大堰川の水面を眺めながら、優は自身の心境の変化に驚く。
優の中にあるのは、何があっても自分1人で何とかしなければならないという使命感だけだ。助けが無いことも、〈探査〉で周囲の安全を確認することができないことも。今の優にとっては、恐怖や緊張の種になり得ない。
任務中と同じように、凪いだ心持ち。それでいて、五感だけでなく〈感知〉で得ているマナを使った第六感すべてに集中できている。
(これは、ここ最近の瞑想のおかげ、なのか……?)
これまでにない、精神的な集中状態。意識せずとも自身を客観視でき、全ての物事を知覚できている。ゾーンと呼ばれる状態に似ているが、動的で激しさを伴ったそれとは違う、どこまでも静かな集中状態だ。
(ただ、自然と一体化する、みたいな感覚は無い。つまり、〈月光〉では無いんだろうが――)
余計な力が入っておらず、まさに自然体。〈感知〉についても道場にいた時と同じかそれ以上に、マナの消費を抑えることができている。道場に居たときは感じられなかったこの状態こそが〈月光〉への手がかりではないか。そんな手応えが、優にはあった。
(となると、現状を分析して、意識的にこの状態になれるようにならないとな)
自分が落ち着いていられる理由を考えてみた優は、自分が外地に出るのが初めてではないこと。また、魔獣についてあるていど知っており、戦闘もしているからだと思い至る。こうして独りになるまでに、優は第三校で様々な経験を積んだ。
第三校や道場にいたときは気付けなかった。
しかし、今こうして“外”に出て立ち止まって考えてみたとき。優は、自分が仲間たちと共に積み上げて来たものが無駄になっていなかったことを実感する。
(……良かった。俺もちゃんと、前に進めているんだな)
一時とは言え全ての“つながり”を捨てて全く新しい環境に身を置いたことで、自然と優は自身の成長を客観視できるようになっていたのだった。
そうして優が〈月光〉の手がかりと共に己を客観視していれば、早くも目標だった30分が過ぎようとしていた。急いで道場に戻り、沢渡の指示のもと水分補給などの小休憩を挟む。それを済ませば、再び敷地の外へ。それを繰り返すたびに、優が外地に居なければならない時間が45分、1時間、1時間15分と長くなっていく。
その繰り返しに変化が訪れたのは、その日最後の外地修行でのこと。もうすぐ日も暮れようかというときだった。
「――……っ!」
優が使う13mの〈感知〉の網に引っかかったのは、小さくも禍々しいマナの反応だった。
〈感知〉の範囲13m。それは、初日の身体能力測定で久遠が見抜いた、優が反応できるギリギリの範囲だ。運動神経は中の上ほどだが、動体視力と反射神経がずば抜けて良いことを数値として把握した久遠。
反射神経が良ければ、その分〈感知〉の範囲は小さくて済み、マナの消費を抑えられる。が、範囲が小さすぎては、敵の攻撃などに反応できず殺されてしまう。
人間が反応できる速度の限界といわれているのが0.1秒だ。それを基準として、人間が〈魔弾〉を射出できる最高速度(=弾という具体的なイメージを持って撃ち出せる速度の限界)と言われている200㎞/時に、ほんのわずかな余裕をもって反応できる範囲。
優の場合はそれが13mだった。なお、久遠は15m、沢渡は21mだ。
(魔獣の突進!)
すぐに反応した優は、すぐさま身をひねって魔獣の進路上から外れる。すると、優の目の前を小さな鼠の魔獣が通り過ぎていくのだった。
実際問題、時速200㎞の〈魔弾〉が飛んでくることなどまずない。また、地上における動物の最高速度はチーターの120㎞/時であり、魔獣化して身体能力が向上しても150㎞/時前後。しかも魔獣であれば漏出するマナが先に〈感知〉に触れるため、むしろ野生動物たちよりも余裕をもって反応ができる。
常坂家の〈感知〉は人と魔獣、それぞれの限界の限界を突き詰めて調整されている。そのため、実際はかなり余裕をもってかわすことができる。
――それこそ、魔獣の攻撃を避けてすぐに、攻撃に転じることができるほどに。
『ヂュゥ!』
優という獲物を捉え損ねたネズミの魔獣が振り向いた時、そこにはもう既に、無色透明の刀を振り上げる優の姿があって――。
「ふ……っ!」
夕焼け色に染まる嵐山商店街に、また1つ、黒い砂の山が出来上がるのだった。




