第3話 月の型――〈月光〉
「〈月光〉、ですか?」
優が常坂家に来て9日目にあたる3月12日。修行が始まってちょうど1週間が経ったその日の朝。優は師である沢渡から、月の型の神髄となる魔法の習得を打診されたのだった。
「はい、神代さま。これまで行なって頂いていた雑務は専門の方に任せ、今日からは黒帯以上の門下生に混ざって〈月光〉の習得に励んで頂こうと思っております」
物腰柔らかに言う沢渡に連れられて優がやってきたのは、常坂家の中央に位置する大方丈と呼ばれる場所だった。
その見どころはなんと言っても、建物の裏手にある美しい日本庭園だろう。砂利の白、草木の緑、空を映す池の青。計算され尽くした自然の姿が、そこにはある。縁側から全体を見渡すもよし。部屋の襖を開け放ち、額縁で切り取られた絵画として楽しむもよし。木と畳の香りが立ち込める大方丈は、日本人であれば誰もがほっと息を吐いてしまうような場所になっていた。
そんな庭園を眺めながら優が縁側を歩いていると、先を行っていた沢渡がとある部屋の前で足を止める。
「ここです」
そこは、畳が敷かれた50帖ほどの広い部屋だった。室内には、老若男女30人ほどが居て、全員が庭の方を向いている。しかし、彼らの目は一様に閉じられている。座布団の上で胡坐、あるいは正座の姿勢まま微動だにしないその様は、置物のようでもあった。
と、その部屋に入った瞬間、優は微かなマナの感触を捉えた。
瞬間、優の身体に緊張が走る。薄っすら感じるマナのその感触が、常に周囲にマナを垂れ流す魔獣と相対した時とよく似ていたからだ。
しかし、何度も魔獣たちと戦ってきたからこそ、この産毛を撫でるようなくすぐったさが魔獣によるものではないこともすぐに察する。
(魔獣ならピリピリするからな……。となると、誰かが〈感知〉の魔法を使っているのか?)
そう思って優がよくよく目を凝らしてみれば微かに、大気中に漂う色とりどりのマナの光を捕らえるのだった。
「沢渡さん。これって〈感知〉ですか?」
虚空を眺めながら言った優に、沢渡が微笑みを浮かべる。
「お気づきですか。これこそが、月の型の極致〈月光〉です。……とはいえ、彼らの場合は成長途中なのですが」
「月の型の、極致……」
言われてみれば、まだ月の型を代表する魔法を見せてもらっていなかったことを思い出す優。例えば花の型であれば〈開花〉、風の型であれば〈閃(風切)〉など、それぞれを代表するような魔法があった。
(風の型の時も、常坂さんは〈呼子鳥〉……生きた鳥そっくりに動く鳥の〈創造〉を見せてくれたが……)
どうやら月の型の基本となる魔法は〈感知〉らしいと、優は〈月光〉について考察を始める。と、そんな優の思考を読むように、沢渡が月の型と〈月光〉について話し始める。
「神代さまのご想像の通り、〈月光〉は〈感知〉と呼ばれるマナの扱いを極めます。どこまでも薄く、薄く。マナを自身の周囲に放出し続け、死角を失くす」
そう聞いて優が思い出すのは、先日、久遠がどこからともなく飛んできた手裏剣を弾き落とした場面だ。あの時はどうやって視界外からの攻撃に対処したのか分からなかった優だが、今なら彼女が〈月光〉を使っていたのだと分かる。
だが、疑問も残る。久遠のすぐ側にいた優は、彼女が魔法を使っている痕跡、すなわちマナの動きを一切感じなかったのだ。しかし、事実として、久遠は〈月光〉を使って死角からの攻撃に対処して見せた。それらのことから考えて、優は〈月光〉の正体にたどり着く。
「常に〈感知〉の状態を維持する。魔獣が無意識にしていることを、俺たちは意識的に行なうわけですね」
「その通りです。静かに、誰にも感づかれることなくマナを広げ、周囲の状況を探る。また、そうして状況を探り続けるだけの精神性を育む。それこそが、月の型の真骨頂となります」
月の型について端的にまとめた沢渡は続けて、
「神代さま。あなた様にはこれから2週間以内に〈月光〉を習得して頂きます」
改めて春休みにおける神代優の目標を、提示するのだった。
「2週間で、習得ですか……」
普段の柔和な笑みを消して示された目標に、優は一瞬、内心でたじろぐ。
1日中〈感知〉を維持する。そのためにまず必要なのは、圧倒的な魔法技術だ。常に〈感知〉を使い続けるとは、有限の貯水タンクの蛇口を開けて、常に水を出しっぱなしにしなければならないということでもある。
ずっと水を出し続けるだけの貯水タンク(=魔力)を持っていれば良いが、優には無い。むしろ、それだけのマナを保有している人物こそ、魔力持ちや天人と呼ばれる人々だ。この道場に通う、優を含めた全員が“その他大勢”でくくられる一般人でしかない。
となると、求められるのは、水の出し方を調整し続ける繊細な技術だ。この蛇口は、放っておくと安全装置が働いて水が出なくなってしまう。そのため、何が起きても常に蛇口をひねり続けることを意識しなければならない。
しかし、厄介なことに、この水は出し続けなければならないというものではない。あくまでも自主的に、その作業をする必要があった。失敗すれば、気を失うという厄介なオマケつきで。
やる必要のないことを常にやり続ける。何があっても蛇口から手を離さない。そんな強靭な精神と、常にギリギリの水を出し続ける力加減が、〈月光〉には求められていた。
と、そこまで考えてようやく、優は下積みの修行で課されていたもう1つの課題――〈身体強化〉を使い続けること――の意味を知る。これまでは魔力を上げるためだと思っていた優。しかし、フタを開けてみれば、月の型の神髄に繋がる重要な修行でもあったのだ。
その事実が、沢渡が“最初から”自分を信頼し、門外不出でもある〈月光〉の魔法を教えようとしてくれていたように感じられる優。もちろん本当のところは違う。沢渡はあくまでも触りだけを教えるつもりであり、〈月光〉を教える段階にはならないと思っていた。その沢渡がここ数日で心変わりしたなどと、優が知るはずもなかった。
「〈月光〉……」
優は改めて、自身が見つけることができるかもしれない魔法の名前を口にする。どうやら、索敵系の魔法らしく、久遠が使う〈閃〉や〈紅藤〉と比べると地味極まりない。必殺技と呼ぶにはひどく頼りない印象だ。
それでも、と、優は日に日に尊敬の念が高まっている人物・常坂久遠の姿を思い出す。
強くなりたい。優がそう伝えた時、彼女は迷いなく月の型を選ぶように言った。弟子となった今は師範に当たる狐面の少女の言葉を、優は信じることにする。
(それに“月”だもんな……)
月。それは優にとってとても因縁のある物だ。例えばたびたびちょっかいを駆けてくる天人の先輩・モノ。彼女と会うときは、多くが月夜だった。あるいは啓示としての【月】。それは、闇猫や魔人たちを隠蔽したとされる男神ノオミが持つ啓示だ。事件の中で春野を失っている優にとって、ノオミもまた、因縁のある相手と言える。
そうして何かと所縁のある月の力を、今度は優自身が身に着けようとしている。
(これも【運命】ですか、シアさん?)
いまも遠くで、真面目にキックボクシングに励んでいるだろう天人のことを思い浮かべる優。
「……さま。神代さま? どうかなさいましたか?」
沢渡からのそんな呼びかけで、優は意識を現状に向ける。
「あ、すみません。えっと……?」
「先ほども申しました通り、神代さまにはこれから彼らに混ざってひたすらに瞑想をして頂きます。とは申しましても、姿勢などは楽にして頂いて構いません」
通常、胡坐を組んで行なわれる瞑想だが、常坂家の修行では“姿勢”にこだわらない。重要とするのは、己の精神と向き合い、互いに放出するマナを極限まで薄くすることだ。
「体外に放出されたマナもまた、己です。そうして目を閉じていても周囲にあるものの形はもちろん、色や性質をも感じ、見極めることができる。自身と周囲の環境が一体となった時、〈月光〉は完成します」
「……なるほど」
沢渡の説明にどうにか了承の言葉を返した優だが、疑問は多い。座って、目を閉じて、マナを広げる。たったそれだけのことで良いのか。マナを通して物体の形を知るのは〈探査〉などで馴染みある感覚だが、色や性質を“視る”とはどういうことか、などなど。
ただし、それら修行への疑問に明確な答えがあることは、もう既に知っている優。ひとまずはやってみて、それでも分からない時に改めて沢渡に聞いてみることにする。
「もう、〈身体強化〉はして頂かなくて結構です。部屋の隅に座布団があるので、それを使ってくださいね。……どうぞごゆるりと、自分自身と向き合ってください」
それだけを言い残し、優のもとから去っていく沢渡。
残された優も、他の門下生たちの邪魔にならないよう足音を立てずに移動して、集団の最後方に陣取る。あとは見よう見まねで目を閉じ、透明なマナを広げていく。しかし、優は〈感知〉を使われることはあっても、自分が使ったことなど授業以外では皆無に等しい。
(勢いよく一瞬だけ広げればいい〈探査〉とは違う。ゆっくり、広く、マナを広げるんだったか……)
慣れないマナの操作に、さっそく苦戦することになる。そして、苦戦しているということは、集中できないということ。沢渡が言っていた周囲と同化する感覚など、まだまだ遠い道のりに優は思える。
(もう1か月もない……。本当に間に合うのか?)
目を閉じるだけで湧いてくる、疑念や焦り。そうして湧き上がって来る“自分”と向き合うことこそが、瞑想の意味だ。そうして、自分と向き合いながらも〈感知〉をし続けるためのマナの意識的な操作も続けないといけない。
「ふぅー……」
深く、長く。息を吐いた優が、意識を暗闇の中へと落としていく。
大切な人たちを守りたい。もうこれ以上何も失いたくない。シアが誇れる“主人公”で居たい。頼れる幼馴染・春樹と対等な友人でありたい。天が帰って来た時、成長した自分を見せたい。再び闇猫と相まみえた時、もう震えていたくはない。もう二度と、相手に救われるという、情けない状況になどさせない。
(この手で……たとえ、俺1人でも。大切な人たちを守れるようになる)
強くなりたい理由を改めて確かめた優は、新たな段階へと進んだ修行に取り組み始めるのだった。




