第1話 苦い過去
大阪市内へと向かう急行電車。2人ずつが向かい合うように座ることの出来る計4人掛けのシートの窓際の席。レールの継ぎ目に合わせて規則的に揺られながら、耳を少し隠すくらいの黒髪・黒目の少年――神代優は夢の中にいた。
それは、2年ほど前。中学2年生の頃の苦い思い出。ある意味それはトラウマとも呼べるものだった。
世間が秋めくその日の放課後。優は中学校の図書室にいた。今日は金曜日。図書委員として各クラスから1人ずつ、委員が集まることになっている。
1人手持ち無沙汰だった優は手にした本に書いてある主人公に思いを馳せ、空想に耽っていた。それは、ヒーローに憧れる彼の日課でもあった。例えば絶大な魔法を手にドラゴンや魔王を倒したり、あるいは、格好良い剣を片手に勇者として活躍し、美少女たちを侍らせる。
「いいよな。俺も女の子とイチャイチャしたい……」
年頃の中学生男子であるところの優。そういったことへの興味も十分にある。むしろ日々、絵として美少女たちを眺めている分、同級生よりも強いかもと思っているぐらいだった。
加えて、先日。妹の神代天に晴れて彼氏が出来たという。父は当然のように泣いて、優も兄として、また、彼女に憧れるものとして、思うところはかなりあった。
それでも、妹の意思を尊重することにしているのだが、やはり割り切れない。そのストレスがよくわからない焦りとなって、優の中に燻っていた。
「ごめんなさい、神代くん! 遅れました!」
優がモヤモヤした感情を吐露していた直後。静かな図書室に1人の女子生徒が入って来る。彼女の名前は春野楓。天と同じくらい、150㎝ほどの小さな身体に垂れた目元。眉の上できれいに切りそろえられた「ぱっつん」と前下がりのボブカット。これで眼鏡をかけていれば、優の思う文学女子そのものになるような、そんな女子生徒だった。
衣替えを終えて紺色のブレザーを着る彼女こそ優の初恋の相手であり、そして、彼が勝手にトラウマにしてしまっている経験を生む人物でもあった。
「いいよ、春野さん。それより斎藤は?」
「斎藤君、部活だって言ってました。確か、テニス部でしたよね?」
「そうそう。まあ、部長になったって言ってたしな。仕方ないし、2人で照会しよう」
「うん!」
基本的に2年生の図書委員がすることは貸し出したほんと返却された本の照らし合わせ。月曜日に1年生が本の整理、水曜日に3年生がその時の“企画”を進める。そんなローテーションだった。
時折、来館者の相手をしながらパソコンの履歴を確認する作業を進める。必要であれば延滞者を記録しておき、あとで教師に報告する。
その作業の途中。勉強したり本を読んだりする生徒たちの邪魔にならない程度の声で、春野が優に話しかけた。自然2人の距離は近くなり、春野から漂って来る何らかの甘い匂いに思春期男子の優はたじろぐ。
「魔獣の話、聞きました?」
「……ん? あ、大阪駅近くで野良猫がってやつ?」
「そうです、そうです!」
身近に魔力持ちである天がいる優にとっては、決して美少女というわけでは無い春野。それでも、化粧っ気のない純朴さを感じさせる見た目。気弱そうでありながら芯のあるところは好感が持てる。何より――。
「それを特警が格好良く対峙したんです!」
「そう、そう! 上げられてた動画で見たけど、めちゃくちゃ格好良かったよな!」
「そうなんですっ。やっぱり特警は格好良いですよねー!」
“格好良い”を共有できる。似たような価値観を持っていることもあって、優は春野とよく話が合った。いつの間にか大きくなってしまっていた声に上級生の咳払いで気づきつつ、それでも2人は話を続ける。
そのお題はいつも特警と特派員、どちらの方が人々のためになるか。特警とは特殊警察の略称。主に内地で活躍する彼らは、人間や天人が起こした事件のうち、魔法が絡むものに対処する。もちろん基本は警察と同じであり、市民の困りごと、特に魔獣の対応などに駆り出されることも多かった。
外地に赴き、人類の安全圏を広げようとする特派員。人類の安全圏を確固たるものとし、人々の安全を守る特警。どちらも欠かせない存在と理解しながら、あえてどちらが上かを話し合う。優も春野も、そんな何気ない会話が好きだった。
途中で作業の手が止まっていることに気付いた2人が慌てて本の貸し借りの照会を済ませた頃には、17時30分。下校のチャイムがちょうど鳴っていた。閉館時間を迎えた図書室には優と春野しかいない。忘れ物などを確認しながら、2人は進路について話す。
「春野の進路はやっぱり特警の養成学校なのか?」
「うん。……そう言う神代くんはやっぱり特派員を?」
「そうだな。俺は安全に暮らせる場所を広げる方が、よりたくさんの人を助けられると思うし」
「そっかー……残念です」
優の答えに落ち込んだ様子の春野。
「残念って?」
「あっ! えっと……神代くんは無色ですから。一緒に特警になったら活躍できるんだろうなって……」
春野も魔法の授業で優のマナが無色であることを知っていた。普通は恐れられるそれも、特警を目指す春野にとってはむしろ肯定的に映る。対人戦を主とする特警にとって、無色のマナは非常に重宝されるのだ。そのため彼女は最初から優が無色であることを恐れず、むしろ羨ましがっていた。
「だから残念だなって。でも、うん。神代くんが決めたことですもんね。お互いに頑張りましょう。応援しています!」
「あ、ありがとな。俺も春野の夢、応援してる」
「うん! ありがとっ! 見ててよー、絶対現役合格します!」
その時、彼女が見せた笑顔に優はやられたのだ。無色のことも気にせず、話が合って、見た目も好み。加えて、妹が盗られたような気持ちから来る焦り。思春期の劣情。何より、春野なら押せば行けそうだという勘違い。
下卑た打算と様々な感情がない交ぜになって、居ても立っても居られない優。2人して図書室の電気を消して、夕暮れの廊下に出る頃には全身が妙な熱に侵されていた。
異様な熱に浮かれる優の体を、空風で冷えた廊下が迎える。
「鍵も……うん、きっちりかけました。それじゃあ神代くん、また――」
「春野、実は俺さ」
「どうしたんですか?」
続く優の言葉に黒い瞳を大きく見開き、一気に赤面した春野。それは彼女の名を示すように紅葉のようだった。視線をさまよわせ、手にしていた図書室の鍵がチャリッとなる。
やがて目端に涙を浮かべた春野は、
「あのっ……そのっ……、ご、ごめんなさいっ!」
それだけを告げて、全速力で駆け出す。制御し切れずにマナが漏れ出たその身体は、銀杏のような鮮やかな黄色のマナに包まれていた。




