1. 面接
ずきずきと節々が痛む体を引きずるようにしながら、家を目指す。
ヨレヨレのスーツ。ぼさぼさの髪。泥で汚れたシャツ。
先ほどまで雨を降らせていた雨雲は、未だ分厚く空を覆っている。
ため息さえ出なかった。
凛々杏にとって、社会生活というのは常に絶望の中にあるものだった。
努力すれば努力しただけ評価され、大人の庇護を得られていた学生生活とは違う。
出る杭は打たれ、努力は踏みにじられ、横取りされ、表面上の仲良しごっこの裏にある膨大な足の引っ張り合いにはもううんざりだ。
電車のホームに立つと、線路の悪魔に呼ばれる。
希死念慮さえ抱けない程に疲弊していても、線路の悪魔の誘惑は凛々杏の足を動かすには十分だった。
あぁ、今日こそ、この誘惑に抗えないかもしれない。
そう思った時、突然吹いた冷たい風に踏み出しかけていた足を止める。
瞬間、顔に何かが貼り付いた。
不愉快を隠すこともせずに、顔に付いたチラシを引きはがせば、それは一見ありがちな見た目をした求人広告だった。
「ベルリューム邸の給仕・清掃係」の募集案件だというそれは、怪しい程に好条件揃いだ。
住んでいる会社の寮からも30分かからずに屋敷の最寄りに着くし、時給も悪くない。週1日から応相談で働けるし、WワークもOK。手当もそれなりに出るようだし、何より「ベルリューム邸」そのものが魅力だった。
“コレクター”と呼ばれる人たちが、最近世間をにぎわせている。
なんでも彼らは、オカルト現象が発生すると、そこに現れ、その原因となっていると思われる物品を収集して居なくなるという。特別に見目麗しいという彼らは「魔法使いなのではないか」というのがもっぱらの噂だった。ネットには本当か嘘かもわからない程鮮明に撮られた「コレクターの写真」が山ほど投稿されているが、もしもあれらが本当なのならば、確かに人の心を容易に揺さぶれる程の外見を持った人たちばかりだ。
彼らが住まうというベルリューム邸は、森の奥にあるというが、そこに辿り着けた者は居ない。コレクターの後をストーカーしたという女性たちも、気付けば上手く巻かれてしまい、森の中を彷徨うだけで屋敷にはたどり着けなかったという。
バカバカしい。
……そう思えたらどれほど良かっただろうか。
そんな風に一蹴してしまえない程度に人間社会に絶望していたし、きっとそんな風に思えないからこのつまらない”現実”が根を張る人間社会に馴染めないのだろう。
詐欺だとしても構わない。どうせ捨てるつもりだった命だ。警戒は怠らず、けれど少しくらい冒険してみるのも良いだろう。
そう思った時には、既に記載されている連絡先を打ち込んで、発信ボタンを押していた。
「はい、ベルリューム・コレクター本部です」
受話器越しに聞こえてきたのは意外にも、若い娘の声だった。
「あの、求人の広告を見たんですが」
「求人……?少々お待ちくださいね」
そんなものは出していない、というのが分かりやすい反応。だが、このチラシに書いてある番号に掛けて本物のベルリューム邸に繋がったというのであれば、この求人も本物である可能性が高い。
保留にする、という発想は無いのか、電話口の向こうで「ニーモさん!! なんか、求人を見たって人からお電話が」と叫んでいる声がして、思わずくすりと笑う。
口角が上がる久方ぶりの感覚。
頬の筋肉がいつもの作り笑いとは違う、数年来の動きに、小さく痙攣する。
あぁ、こうして笑うことすら忘れていたなんて。
「お電話代わりました。求人のチラシをみてお電話くださったと」
ニーモ、と名乗る男性はベルリュームの総支配人だと名乗り、ぜひ面接をしたいから日時を指定してくれと、渋い、どこか深みのある声で続けた。
「お名前は」
「佐々木凛々杏です」
「年齢は」
「25歳です」
「女性の方で宜しいですね」
「はい」
「面接の日時のご希望は」
「明日でしたら終日空いております」
「分かりました。面接に持ち物は不要です。では、明日の正午、ベルリュームの屋敷でお待ちしております」
総支配人の男性は丁寧な言葉づかいで、けれどテキパキと必要最小限の質問を投げ、必要最小限の情報だけをこちらに与えて電話を切った。
チラシに書いてある地図は非常にシンプルだが、本当にたどり着けるのだろうか。
翌日、そんなことを思いながら、一応アイロンをかけた使い古しのスーツ姿で家を出る。いつもよりほんの少し髪を綺麗に整え、いつもよりほんの少し丁寧に化粧をしただけの、けれどいつもと何も変わらない服装。それでも、街のショーウィンドウのガラス越しに映る自分の背筋がいつもよりしゃんとしていて、足取りが軽いことに気付く。
正直、ワクワクしていた。
こんな気持ちを抱くのは今の会社に就職が決まった時以来だろうか。
就職してからは毎日同じことの繰り返しで、新しいことをしようとすれば潰され、貶められ、ただの歯車の1つになることを強制された。
自分にしか生きられない人生を生きたいんだ、と反発したこともあったが、まもなく、人間社会全体がこの会社と同じ風潮に支配されていて、結局どこに行っても変わらないんだと気付かされてしまってから、社会の思惑通りに歯車となって生きてきた。
いや、死んでいたのかもしれない。
それが、今、もしかすれば少しだけ、他の人と違うものを見られるのかもしれないと、期待している。
あぁ、期待なんてすぐに打ち砕かれるもの、抱くだけ無駄だと言うのに。分かっていても、それでもこれが最後の望みだった。冥土の土産に悪あがきした痕跡くらい残しても良いはずだ。
「……案外あっさり着いたわね」
思わず口からそんな言葉が漏れる。だが、目の前にある巨大な屋敷は紛れもなくベルリュームのものに違いない。5m程もある大きな門には特に門番がいるわけでもないが、門の前に立つとひとりでにそれが開いた。
門から屋敷の入り口まで3分程歩いただろうか。その間も左右の庭には美しい緑に覆われてはいるが、不思議なことに花が殆ど咲いていなかった。
屋敷の入り口が見えてくると、不意に、中から1人の男性が現れる。
第一印象は”奇抜な服装”だった。
今にもラテンダンスを踊り出しそうなフリルの沢山ついた赤紫のシャツに、これまた奇抜な、オレンジを中心としたマーブルカラーのジャケットを羽織り、紺色のスキニージーンズと合わせている、手には”いかにも”というような水晶玉の付いたステッキを握るその男性は、先日電話で聞いたのと同じ声で「佐々木凛々杏だね」と言った。
ニーモ総支配人、と名乗るその男は胡散臭い髭面に、やはり胡散臭い笑顔を貼り付けて、どこか芝居じみた動きで私を中に招き入れる。
何かあったらすぐに通報できるようにしておかないと。
ちらりとカバンの中のスマートフォンを覗き込めば、どうやらちゃんと電波は入っているらしい。
彼の後ろを付いて執務室に向かう途中、数人の使用人とすれ違った。雑談も挨拶も一切なく、ただ横を通り過ぎていく使用人たちの様子は、どこか会社を想起させて頭が痛む。
「使用人の大半は傀儡人形だ。自由意志は持っていない」
「え」
突然の発言に思わず素の声が漏れる。慌てて背筋を正して「傀儡人形、と言いますと?」と返せば、男は「そのままの意味だよ」と昨日の電話からほんの少しも変化を見せない口調でそう返した。
「ベルリュームがどんなところか、噂には聞いているだろ?」
「噂だけですが。本当と思えることは何一つ」
「殆ど真実だと思って良い」
「見目麗しいコレクターたちは皆、魔術師で、オカルト品の収集をしている、と?」
「あぁ、その通りだよ」
さらり、と肯定が返ってくることに驚く。全く虚偽だと思っていたわけではないが、ここまであっさり認められるのは意外だった。
「さて、働くとしたら、君はどれくらいここに通えるかい?」
「普通の仕事も続けながら働きたいです。可能であれば週2日程度」
「構わないよ」
「あの、でも、固定曜日とかではなく、週によっては1日になることも……」
「それも構わない。来れる時に来れば良い」
「え」
まるで友達の家にいつでも遊びに来ていいよ、とでも言うような口ぶりに驚く。
だが、そんな働き方をしても良いというのなら好都合だ。仕事の合間にでも可能な限り顔を出してお金を稼ごう。
稼いで、貯めたお金で、何かしたいことがあるわけでもないけれど。
「ぜひ君を雇いたいが、君の方はどうかね?」
「え、あの、面接とか……」
「この屋敷に辿り着いた、それで十分合格点だ」
「え」
「普通、ただの人間はこの屋敷には辿り着けない」
「ですが地図が」
「地図があっても、だよ。けれど君は、ほんの少しも迷うことなくここに辿り着いた」
執務室の前で立ち止まると、ニーモはこちらに向き直り、不気味なほどに白く、綺麗に揃った歯を見せてこういった。
「ようこそ、凛。ベルリューム邸へ」