第七話 合格とこれからと
▽第七話 合格とこれからと
ひとしきり嗤われた後(といっても、ヴィクティムの嗤いにはからかいこそあれど、悪意はあまり見受けられないので、恥ずかしさだけで嫌な気はしなかった)、鏡夜は杯を手渡された。
手渡しの時、軽く指と指とが触れ、無意味にドキドキしてしまったのは秘密だ。
心臓はすでに動いていないはずなのに、どうしてだろう。
鏡夜は杯の中身を見た。そこにはどす黒い液体が満ちていた。ほとんど無風の迷宮内に於いても、薄く、水面に波紋が広がっている。
「血だよ、血」
なんてことなさそうに、ヴィクティムは答えた。
「キミだって吸血鬼になってしまったのだから、欲しいだろう? 幸いなことにそれは処女の生き血ってやつさ」
「生き血……」
「まあ杯に注いだから生き血というには語弊があるけれども……良いじゃない、細かいことはね。頭が痛くなっちゃう」
飲め、ということらしい。
まだ人間としての意識が強い鏡夜からすれば、とても嫌なことだった。忌避感が凄まじい。血を飲め、だなんてまさかいじめっ子の石動だって言わないだろう。
でも。
ごくり、と喉がなってしまう。涎が垂れそうになるのを我慢する。
「……いいよ。飲んでごらん?」ヴィクティムが優しげに目元を和らげた。
「いただきます」
一息で飲み干す。生温い、液体なのか固体なのか、それすら判然としない感触。気持ち悪い、と思っても、つい飲み干してしまった。喉を鳴らして嚥下する。
全身がカッと熱くなるような錯覚がした。
それでもなんだか、あまり良い気はしなかった。それはヴィクティムも解っていたのだろう、少し申し訳なさそうに目を伏せていた。
「さ、しかしながら満足はできないだろう? 当然だよ。吸血鬼は人の首から血を吸わなくっちゃね。それ以外は新鮮じゃない、人間で言うところの腐った食物さ」
「……じゃあ、今、ぼくは腐った食べ物を口にさせられたの?」
「ワインみたいなものさ」
言いながらヴィクティムは深紅のブラウスから、軽く衣服をずらすように捲りあげ、己が肩を露出させた。白く、魅力的な肩だった。鎖骨がよく見えた。
「さ。どうぞ?」
「どうぞって、何を?」
「噛んで良いのだよ。噛んだ感覚というのは、存外、食事に於いて重要さ。吸血鬼同士の給血に意味はないけれども、楽しめはするだろう」
それはヴィクティムからの気遣いだった。
いつもの鏡夜であれば即断で拒否したことだろう。でも、今の、飢えた、吸血鬼としての鏡夜には、その誘いは抗いがたい魅力があった。
あの白い肌に牙を突き立てることが、どれほど気持ち良いことだろう。
迷いなく、鏡夜はヴィクティムの首元に顔を押し付けた。甘い甘い少女の香りが鼻腔に満ちた瞬間、鏡夜はその牙で以て少女の薄い肌を貫いた。
牙が血管に触れたのが解る。血が牙を伝い、口に落ちていく。
呼吸すらも忘却して、血を貪る。
アイスワインや貴腐ワイン、そんなレベルではない甘露……酩酊、悦び。
血を飲まれているほうのヴィクティムも頬を紅潮させながら、気持ちよさそうに目を細めていた。優しく、己が首にむしゃぶりつく鏡夜の黒髪を撫でてくれる。
優しい味がした。
……
▽
はあはあ、と息を荒げながら、ヴィクティムが服を持ち上げ、肩を覆い隠した。
鏡夜による噛み痕は、瞬く間に消え失せた。
「お食事もしたところだし、そろそろ本題に……んふ、入ろうか」
「……あ、ああ、ごちそうさまでした」
「お粗末様でしたとも」
ヴィクティムはまた狼を召喚し、そのふかふかの毛皮の上に優雅に腰掛けた。
「キミの実力は魅せてもらった。非常にいいね。すごかった」
「あれは……スキルツリーのお陰だよ。ぼくの力じゃない」
「んん、なるほど。聞いたことがあるよ、スキルツリー。異世界人だけが持つという、才能を選ぶことのできる能力のことだね」
その通りだ。
普通、この世界の住人はスキルツリーシステムを持たない。そのため、長年、剣の訓練をしてきた者が剣のスキルを持てない、ということもあり得てしまう。
だが、異世界人はレベルさえ上げることができれば、誰だって自分の望む力を得られる。
チート、ようするに――ズルだ。
少々、嘘を吐いたような、詐欺を働いたような気がして、鏡夜は居たたまれない。
だが、ヴィクティムはポン、と手を叩いて頷いた。
「であれば、キミは尚更に凄い、ということになってしまうよ」
「? ……え?」
「キミは吸血鬼になった時、再生能力を有していなかった。つまり、キミはハイゾンビに襲われて死にかけの状態で、冷静に判断して、自分でスキルツリーから再生能力を選んで手に入れたのだろう」
たしかに、あれは鏡夜の冷静な判断能力がなければ、できない芸当だった。
ヴィクティムは狼の上で足を組み替えた。
下着が見えそうで見えない。
「おそらく、あの場に居た勇者が同じ状況に陥っても……再生能力を手に入れる前に死んでいたことだろう。それはキミの才能だ」
「……ぼくの、才能」
鏡夜は噛み締めるように繰り返した。
あっ、とヴィクティムが人差し指を立てた。
「あと、キミ、今、ボクの下着を見ようとしたね? 困っちゃうなぁ」
そう言いながらも、ヴィクティムはまたもやわざとらしく、足を組み替えてきた。見て堪るか、という思いがあったが、抵抗は虚しく帰結した。
誤魔化すために、鏡夜は早口で捲し立てる。
「ところでヴィクティム。キミの本当の目的はなんなのさ。暇つぶし、とキミは言ったけれど、それを信じられるほど、ぼくはキミを盲信できないんだけど」
「暇つぶしは暇つぶしだよ」
「キミが都合良く、こんな場所に居るのも疑問だ」
「こんな場所って……ここ、一応、ボクが創った迷宮なのだけれども」
えっ、と鏡夜は目を丸くした。
ヴィクティムはその反応を面白がったのか、胸を張って言った。
「ここはボクが魔王に言われて渋々作成した、ちょっとした要塞なのさ」
「魔王に言われて?」
「ああ、ボクは形式上、魔王の配下、幹部のひとりってことになっている。魔王に頭を下げられてね、仕方がなく、名前を貸してあげたんだけど……」
それからヴィクティムは魔王軍の内情を暴露してくれた。あっさり、と。
「魔王軍も一枚岩、というわけじゃあないのさ。いつでも内部には裏切り者、弑逆を狙う者、色々いるのだよ。また、幹部をてきとーに動かせば、人間や他の魔物に攻め入られてしまう」
魔王も色々と大変らしい。
「でも、ボクは魔王に名前を貸しただけで、大して働いていなかったからね。少しは力を貸してくれってことで、ボクは新人の勇者を見張る役を務めさせていただいているんだ」
「新人潰しってこと?」
「うん。勇者は成長しきったら魔王の天敵だからね。でも、他の幹部も軍も動かせないから、どうしてもしょっぱい奴らか、ボクのような余った奴しか動かせないのさ。将来の敵の前に、目先の敵を先に片付けねばならないのだよ」
魔王も大変だよねえ、とヴィクティムはつまらなさそうに呟いた。
「とはいえ、ボクはあまり仕事熱心なほうではない。働いた、とだけ言うために悪戯は仕掛けさせてもらったがね」
「なるほどね」
「なるほどだ」
まさか経験値稼ぎに打って付け、と噂される場所が魔王軍幹部の支配下にあるとは、誰も思わないだろう。仮に、ヴィクティムが真面目な魔王軍だった場合、石動たちは普通に殺されていただろう。
ダンジョン攻略中の事故に見せかけられて。
「……石動くんを殺さなくて良かったの?」
「おや、ボクに殺して欲しいのかい? さっきの『殺す殺す』と威勢の良かったキミは何処に行ったというんだ。迷子かな? ここは迷宮だからね、迷ったって仕方がないのかもね」
「いや、単に不思議に思っただけだよ」
認めたくはないけれど。
「ぼくは勇者の仲間、だった。そのぼくを吸血鬼にして、強くして、キミには何のメリットがあるっていうんだ」
「キミは勇者の元には戻らないよ」
当然を口にするかのような口ぶりで、ヴィクティムは断言した。彼女の椅子にされている狼が眠たそうに大きな欠伸をした。
「あの時、キミは瀕死だった。けれども、キミは『生きたい』ではなくて、『殺したい』とそう言ったんだ。偽ることない本心を吐露させてもらえるのならば、ときめいてしまったよ」
「……たしかに、殺したい、とは言った気がするけれど」
「ね。人間の本性や底っていうのは死に際に現れるのだよ。キミの本性は――殺意に塗れている。人間には相応しくない、怪物の精神性を持っているのさ、キミは」
ヴィクティムが鏡夜を勧誘した理由は、朧気だが掴めてきた。
であれば、と鏡夜は自分よりも遙か先を行く吸血鬼に、尋ねることにした。
「ぼくはこれからどうすれば良い?」
「そうだなぁ……」
ヴィクティムは最初から決めていただろうに、まるで迷うような素振りを見せた。素人目にでも、その迷いや躊躇いが演技であると察せられる。
そして、彼女のほうも、演技が露呈することを承知済みらしかった。
「じゃあ、キミには潜入調査ってやつをやってもらおうかな」
んふ、と最悪な吸血姫は悪意に塗れた笑みを湛えた。
「勇者の元に戻ってもらおう」
「……さっきの台詞は何処に行ったんだ」
「迷子さ。迷宮ではあるあるだって言っただろう?」
キミは勇者の元には戻らない、というヴィクティムの台詞は、一分も立たずに翻された。どうやら猫と女性、吸血鬼は気紛れな生き物らしい。
苦労させられそうだな、と鏡夜は苦笑した。