鈴の音の少女
私は廃墟というものにひどく心を惹かれる。
一歩足を踏み入れると、ほのかに残る人の営みのあった気配と共に朽ちて軋む床の音が私の心をひどく踊らせた。割れた窓から差し込む光を床に散らばるガラスたちと宙に舞う埃がキラキラと反射させている。
街の不良どもがイタズラに書き殴ったグラフィティもどきや散乱するタバコの吸い殻とアルコール飲料の缶。
それら全てを私は心の奥底から愛している。
安月給を貯めて買った古い一眼レフカメラに言われるがまま買わされた14mmの中華製の広角レンズを首から下げ、高揚な気持ちを抑えきれず「人類奴隷化計画」と書き殴られたコンクリート製の壁に向けシャッターを切った。
今日私が来ている廃墟は、元は小さな劇場だったそうだ。もとはロビーであったであろう大きなドアを抜けると、かび臭い赤い絨毯の敷かれた小さなステージが見えてきた。客席は20といったところだろう。舞台の上にはパイプ椅子が積み重ねてあり、それら全ての座面は破れ中から腐りかけた黄色いスポンジが顔を覗かせている。
私はその椅子の中からなるべく原型をとどめてるものを一つ手に取り、軋むステージの真ん中に椅子を広げ腰を落とした。
背負っていたリュックを膝の上に乗せ、中から初夏の気温でぬるくなったビールとスナック菓子を出す。
私の休日はいつも決まってこうだった。この腐った材木の匂いとかび臭い絨毯の匂いを鼻腔いっぱいに吸い込みながら、ビールをいっぱい引っ掛ける。ピリピリと喉を抜けるアルコールが徒歩でここまで来た私の疲弊した両の足にまで染み渡る。
アルコールのために私はいつも徒歩でくる。今日は計算より長く時間がかかってしまったため、もう太陽は低い位置にあった。
早めに切り上げないといけないな、と考えてスナック菓子を口にほおっていると、ふいに、ガサとひだりから音が聞こえた。仮にも不法侵入の身の上。私は焦った気持ちで、立ち上がり音の鳴る方を見た。
もとより、廃墟というものには野犬や輩などがそれはたくさん出るもので、私もつい最近野犬に追われたばかりだった。これが管理人でも野犬でも輩でもまずいことになる。私は身構え、音の鳴ったロビーの入り口をにらみつけた。
そこには野犬も輩もいなかった。廃退的なこの場所には不釣り合いなその姿に思わず私は動けなくなった。
淡い水色の子供靴にベージュのスカート、ピンクのTシャツ。年齢は8歳くらいといったところだろうか。その少女はこちらをじっと動かず見つめていた。
「君…え?なにしてるの?」
戸惑いを隠せないまま、少女に向かって声をかける。少女はこちらを見つめたまま何もしゃべらない。
ここは田舎のはずれにある廃墟で、そうそう子供の遊び場になるような場所ではない。なにより私はそのような場所しか選ばない。
「こんなところで何してるの?危ないよ?」
片手にビールを持った全身黒い服の男にそんな言葉をかけられても、という話ではあるが。私は、シンプルな疑問と子供に対する心配心で声をかけ続けた。
何回目かの問い掛けに子供は一言。
「知らない人としゃべっちゃいけないってパパが言ってた」
と、答えた。
知らない人以前にこんなところに子供一人で来てはいけないと教えなかったのかと頭を抱えたくもなるが。子供の様子を見るに迷子かなにかだろうか。こんなところで一人で酒を飲む黒服の男と少女。いやはや困った、全く犯罪にしか見えないではないか。
だからといってこんな場所に子供一人置いて帰れるか、というと私の良心がそうはさせなかった。私はこんな偏屈な趣味を持っていながら、性根は割と常識人であった。
「ここは危ないから、おうちに帰った方がいいよ。うち、わかる?」
そう問いかけると少女が不意に私のすぐそばへ駆け寄った。
「危ないのにおじさんはなんでここにいるの?」
私の顔を見上げまっすぐな目で問いかける。私は元来子供というものが苦手であった。聞かれても困ることを悪意なく聞くその瞳に私は頬が引きつるのを隠せずにはいられない。
「ハハハ、なんでだろうね」
引きつった笑みのまま少女にこたえる。
「リンはいつもここにくるけど、誰かがいるのは初めて見た」
少女は鈴のような声で自分の名前を口にした。
リンと名乗ったその少女はスニーカーのつま先を見つめながら足元に散乱したガラスを踏みこんだ。ジャリというガラスの擦れる音がなる。
「危ないからよしな」
私がそう言うと、少女は妙に華やかな笑顔を私に向けると。するりと私の横を通り過ぎ、私の背後に位置する椅子に腰かけた。