堕天使
地に堕ちた天使は、天界に何を願ったのだろうか…?
“人間になって幸せに暮らしましたとさ。”
…違う。
違う違う違う…っ!
違うよ、そうじゃない。
だってそう思わない?
何不自由もなく、疑問も持たず。
ただ無知なままに天界では生きてこられたのに。
それなのに、さ。
たった一度嘘を吐いただけで堕とされた世界は地獄のようなもので。
“無知”でいられなくなって。
すべてを知って、絶望したとしても。
何をしたって、神様は天界には昇らせてくれぬまま、
…死んだのだから。
堕ちた小話-堕天使-
古びた本。
それは分厚い表紙を持ち、ほこりをかぶっていた。
子供の頃、一度だけ持ち出して中身を覗いた私を蝕むもの。
…家宝、と呼ばれる物語。
ページをめくると、かび臭さが鼻をさす。
顔を少ししかめながら話を読み出す。
その先にあるのは、何なのか。
そう思いながら、古びたきれいな絵を追っていく。
最初に描かれていた絵は、天使だった。
綺麗な翼を持ち、穏やかに笑いながら雲の上を歩く。
そしてその先にいたのは、“神様”と称されるもの。
…大きな椅子に座っていた。
「これが、納め物です」
穏やかに笑う天使は、そういって持っていた籠を差し出した。
中身は薬草だっただろうか。
そして、2,3ページ先で話は変わる。
泣き顔の天使。怒り狂う神様。
全てのものが壊されていて、そして悲惨な光景が頭にこびりついて。
そして。その天使は。
翼がもがれ、翼は銀になりました。
輝いていた金色の髪は、平凡な黒へ染まりました。
……零れた涙は、ダイアモンドになりました。
煤まみれで、ぼろぼろの服を着た“人間”になった天使は、心優しいおじいさんに拾われ、幸せに暮らしました。
そう締めくくられた物語。
ふと、そんな本を見つけ出した私はページをめくった。
しばらく気になりながらも本はなぜか手元にはなくて、探しても見つからなくて。
それが見つかった今、私は疑問を抱えながら本のページを捲り続けた。
(天使はどうして嘘をついたの?)
(神様はどうしてそんなに天使に怒ったの?)
(なんでそんなに天使は罰を受けなきゃならなかったの?)
最後のページ。
“幸せに暮らしました”
そう書いてある本に次のページがあるのに気がついた。
ページを捲る。ぺらり、音が響く。
―これこそ、本当の物語。
「天使は、とても綺麗でした。他の天使の何倍も、何十倍も」
「生まれも他の天使とは若干違っていました」
「…神様の涙から、その天使は生まれた」
「そして、その天使は神様に寵愛されていました」
「その天使は、“妃澪”(ひれい)という名すら持っていました」
「そしてある日…いつもどおり、神様は妃澪を待っていました」
「すると、いつも持っている籠を妃澪は持ってきませんでした」
「“どうしたのだ?”と神様は尋ねました」
「“今日は人間からの捧げものがなかったのです”…そう、妃澪は答えました」
「神様には、それが嘘だと知っていました」
「神様は確かに人間が物を捧げたことを知っていたからです」
「でも、妃澪は平然と嘘をつきとおした」
「…少し時間が経って、神様はその理由を全て知りました」
「……神様は、激怒しました」
(神様の水晶に映った妃澪が薬草を苦しむ人間を世話する人間にあげた姿)
「“自分より他の人間を選んだ”―そう言って、怒り狂ったのです」
「ただの嫉妬でした。…妃澪には、困りはてている人間を放置することなんてできなかったのです」
「…が、妃澪は他に言い訳もせず罪を受け入れました―」
当然、妃澪は極刑として天界から人間界へ堕とされました。
その際、寵愛の証を全て失いました。
「人間界という慣れない秩序の中妃澪は生きていきます」
「ただ一つの選択を後悔しながら」
「永遠に消えはしない憎しみを心に刻みながら」
「そして、妃澪は見つけた」
「利用するに値する存在の人間を―」
それって、まさか―『おじいさん』?
「妃澪はそれを利用し、自分の…“人ではない血”を…この世界に遺した」
「そして妃澪は死んでいった」
「そして自分の悲劇を伝えるために」
「この本をつくり後の世代に託した」
「…まぁ“遺した”と言う方が正しいか」
背筋が、ぞくっとした。
…嫌な感覚。
「この血が流れる人間の髪は…」
「透き通る黒い髪だろう」
「この血が流れる人間の目は…」
「…どこまでも人外の、深い金と銀の目だろう」
「左目に宿る金色は、神への憎しみだろう」
「右目に宿る銀色は、人への慈しみの心だろう」
私はつけていたコンタクトを外す。
コンタクトのせいで常に本当の景色なんて見たことの無い目。
それが外気に触れて。
持ち運んでいた鏡で顔を見る。
…初めて見た素顔。
左目は金色で。右目は銀色で。
お母さんに「コンタクトを外して鏡を見ちゃいけない」と言われたから。
ずっと見たことの無かった両目は、堕天使の烙印。
この話の裏切りの証。この話がノンフィクションである証拠。
人ならざるもの、それは私。
お母さんもおばあちゃんも、みんな。
みーんな、私と同じ血の流れる人たちは。
…人ならざるもの。
皆と私が少し違ったのも。
人の事が何一つ理解できなかったのも。
…それはみんな、わたしが…
(おじいさんは利用された)
(人ならざるものを天使が産むために)
(おじいさんはそれを愉しんだ)
(天使は無事、子を産めた)
(だからギブ&テイク、愛情なんて存在しなかった)
(天使は神を憎んだ)
(死んでも尚、その憎しみは消えない)
(その血は脈々と憎悪を受け継ぎ、その誰かがソラに昇る)
(そしていつか神を殺すのだろう、滅ぼすのだろう)
(天使は喜んだ、天使はそのためなら命を惜しまなかった)
(全てを壊しつくす)
(そう、心の中に誓ったから)
(天使が修羅になった時、地上は破滅する)
ふわふわ
風に揺らされ髪がなびく。
その髪の色は輝く金色。
左目には金色に響く憎悪を宿し。
右目には銀色の慈しみを宿し。
背後には天使の羽の名残。
堕ちた天使は空を飛べない。
実際、羽なんぞもうもげてしまって存在しない。
それに、名残だけじゃすぐおちてしまう。
だから呼び寄せるしかない。
薬草を供える場所に赴く。
フードをかぶり、みすぼらしい布に身を包んで。
ひとり、天使が降りてきた。
「捧げ物ですか?」
妃澪と同じ、綺麗なつくり。
それはまだあたらしく、そして裏切りも知らぬ顔。
「……そうなんですけど、神様にお会いできませんか?切実な願いなんです!」
困ったように笑いながらその天使は考えるしぐさを見せた。
「…いいでしょう、お呼びします」
少なくとも妃澪が堕ちるまでは一度も無かった天使の神様への裏切り。
それを私が実現したら、神は驚くのだろうか。
「そこの御仁、何の御用かな」
低い声が響く。
…変わらない、姿。
天使はどこかに引っ込んだ。
「貴方を殺しに」
上手く笑えたかな。
そう思いながらフードを取る。
神様は目を見開く、私は間合いをつめる。
あの物語の予言から推測するに、普通の武器でも殺そうと思えば殺せるらしい。
だから私はナイフで内蔵を思いっきり刺した。
鮮血が流れ出る
頭の中が真っ白になる
私は何をしてしまったんだ?
…自分で殺そうとナイフを突き出しておきながら私は動揺している
おまけに涙まで流れてくる
神様は崩れ落ちていく
あの物語の最後のページに書いてある天使の表情は何だったっけ。
笑い顔だっけ、泣き顔だっけ、それとも怒り顔だっけ。
顔だけ思い出せない。
でも、急に思い出してしまったものは不思議と気になってしまう。
神様はため息をつくように息を浅く吐き出した。
それが最期だった。
あぁそうだ、神様が死んでした天使の顔は、泣き顔でもなければ笑い顔でもなく、怒り顔でもなかった。
ただ呆けたような表情で、棒のように突っ立っていたんだ。
両目からは枯れたはずの涙は透明な色をして、目からちゃんと流れ出ていて。
時が止まったかのようにほかのことは何も感じられなくて。
壊れた人形のように倒れ付した。
そして神様を追うかのように目は閉じられ、全てが止まって。
神様に創られたものは所詮神様という存在があるときしか生きてなんていけないものだから。
妃澪の血は途絶えた。
憎悪も嫌悪も全てが…何もかもが。
神様の死を嘆くかのように氾濫し、そして、世界の全てを壊していった。
全てが壊され、全てが無になった頃。
私はやっと報われた。そんな気がした。