魔王、経済的互恵戦略を語るも、睨まれてしまう
何とか化学パルプの生産工程が確立された末、ノースグランツ領の都市エベルで精製した各種薬品をエルゼリス領に輸出する取り決めが成され、イルゼ嬢とロイド何某の会談を経て正式な契約が結ばれる。
当然ながら定期的に購入される “硫化ナトリウム” や、漂白用のカルキこと “次亜塩素酸ナトリウム” は現地の都市ルーイッドに建設する製紙工場へ納められて、ウッドチップからの繊維溶出に使用される予定だ。
「魔族区画で生産に不可欠な中間財を作り、傘下の地域に卸して完成品の販売は任せる。内外と経済上の結び付きを徐々に強めていけば、近隣国家も軽々に揉め事は起こせなくなる」
「これぞ妾のレオンが発案した互恵戦略! どうじゃ、凄かろう♪」
「おじ様は貴女のモノではありませんし、何故にドヤ顔なんですか……」
苛立った様子で金髪紅瞳の吸血姫が爪を噛み、魔王公邸のラウンジにある寝椅子へ腰掛けたまま俺を睨んでくる。
厳密に言うなら、今回のご褒美と称して膝上に居座り、これ見よがしに頬ずりなどしてくるリーゼロッテが対象ではあれども、此方に対する “そんなのポイしてください!” という抗議の意味合いも含まれていた。
ただ、上機嫌で甘えてくる旧知の青肌エルフ娘に水を差すのも躊躇われて、若干の刺があるスカーレットの視線に心頭滅却して耐えていると、窓際の席で陽光にパルプ紙を透かしていた騎士令嬢が感慨深げに呟く。
「地球のA4用紙は寸分違わぬ同質性という点で神懸かっていますけど、私は手作り感がある地場産の方が好きです。どことなく、人の温かみがある」
「まぁ、手漉きの便箋とか、あっちでも高級品だからな」
「いずれは全ての過程に機械を導入するのじゃから、こっちでもそうなろう」
生産性と製品コストは反比例の関係になるので致し方無しと、締め括られたところで階段より静かな足音が響き、久方振りとなる魔人グレイドが姿を現した。
魔石を利用した小型の卓上噴水と、四人分の紅茶が置かれた硝子テーブルの傍まで歩み寄ってから、いつも通りの堅苦しい態度で一礼してくる。
「ご無沙汰しております、我が王」
「もっと気軽に絡んでくれて良いぞ、ミザリア領で何かあったのか?」
「いえ、私事です。これを見て頂きたく存じます」
そっと差し出された右掌をみれば鋳物の角柱が幾本か乗せられており、棒面に大陸共通語の “名詞” や “動詞” の突起が形成されていた。
市井に与える影響を考慮して、態々報せてくれたであろうそれは… 要するに地球でグーテンベルクが発明した活版であり、リーゼロッテが感嘆の溜息を漏らす。
「ほぅ、誰の発案じゃ?」
「伝手でパルプ紙の量産を聞いた妻のリディアだ」
「kanonのプリンターはPCと電気が無いと使えんし、機工技術の粋たるタイプライターも惑星“ルーナ”だと我ら青銅のエルフ以外は作れんからのぅ、悪くないと思うのじゃが……」
同案件は既に転生者である某不良令嬢が着手しており、エルゼリス領の識者を集めて活版印刷機の試作に入っている。
現状に於ける特許の概念は未熟な上、実物を見た人間が模倣できる技術なので、早い者勝ちになって要らぬ禍根を残しそうだと頭痛がしてきた。
「ディルド父娘の商会には製氷機の流通で世話になった。横槍は入れないとしても、ミルダの事業と被るから、そっちで調整してくれ」
「御意に……」
差し止めされる事も考慮していたと思しき、黒衣の魔人が心持ち嬉しそうに場を辞した後、紅茶を一口啜った吸血姫は金糸の髪など弄りながら、紅い瞳を細める。
その様子に最近は統治関連の相談も持ち掛けているらしいイルゼ嬢が小首を傾げ、無言の視線で問い質した。
「… 確か、加水発酵させた植物瘤と鉄、樹皮で作る没食子インクは活版印刷に適していない筈です。油脂インクを作れば良い蓄財の機会になるやもしれません」
「相変わらず目聡い、針葉樹が豊富なノースグランツ領なら、樹脂の類は容易に調達できますからね。我がリースティア家も一枚噛ませて貰いましょう」
さりげなく微笑み合って結託する二人の令嬢を間近に見遣り、近隣の文明水準が向上するのは重畳と思いつつも、新式インクの調合を丸投げされるリーゼロッテに釣られて、思わず苦笑してしまった。
長らく中世で普及していたインクは植物瘤を水に浸けて発酵させ、鉄片(鉄イオン)と染料を混ぜ合わせた没食子インクでしたが、活版印刷には向きませんでした。それがブレイクスルーを生み出して油性(樹脂)インクの方向へ発展していくのです。




