夜明け
翌日。俺は薄いカーテン越しの朝日で目を覚ました。まぶたはまだ動きたくないと、今日という明日を迎えることに拒絶を示していたが学校に行かなければならないので無理矢理まぶたを開く。昨日から果てしない倦怠感が身体中にまとわりついて離れない。
学校へ向かう足はいつもより重く、そして遅い。背中に岩を乗せているみたいだ。一瞬、幽霊が取り憑いているんじゃないかと思ったが、考えると余計に体調が悪くなる気がしたのですぐに止めた。
「おはよう」
早いのか遅いのか分からないが、近いような遠いような教室に辿り着いた。
「旭、おはよう」
純の挨拶に右手を小さく上げて返す。できるだけいつも通り接しようとしてくれてはいるが、純の昨日の話題に触れていいか分からない複雑な表情が気遣いを分かりやすく教えてくれる。
俺が自分の席に座ろうとすると純がおずおずと聞いてきた。
「その、旭。昨日は」
「大丈夫大丈夫! あんなのは日常茶飯事だ!」
言葉の終わりを待たずに親指を立てて大丈夫、ということを伝える。
「涙ぐんでいるが、それは⁉︎」
「え? ああこれ! これか! これは心の汗であって涙じゃないぞ!」
「何を言ってるんだ……旭」
「本気で引くなよ!」
なんて純と話していると浅沼さんが肩をぐるぐると回しながら教室に入ってきた。
「あ、浅沼さんチッス」
目の前まで駆け寄り俺が挨拶すると浅沼さんは分かりやすく眉根を寄せた。
「だから、その挨拶やめてって言わなかったっけ? それと『浅沼さん』って呼び方も」
「へへ、すいやせん……姉御」
「誰が姉御よ!」
「アナゴ!」
「フンっ!」
浅沼さんのグーパンが無事に決まり俺は床に崩れ落ちた。
「旭! 大丈夫か⁉︎ 浅沼さん! 頼む、今回だけは旭のことを見逃してはくれないだろうか! 旭は今、大怪我をしているんだ」
うずくまる俺の顔を覗き込んで無事かどうかを確認する純。大怪我……? ああ、あれのことか。
「なんで私が安川のことをイジめてるみたいになってんのよ……大怪我って?」
なんだかんだ言いつつ怪我のことを心配してくれる浅沼さん。くっ……傷口にしみる。
「心配してくれてありがとう……浅沼さん」
「別に心配してないわよ。で、どこ怪我したの」
その『別に心配してないわよ』はもっと頰を赤らめてそっぽを向きながら感情を込めて言ってほしかった。
「うん、尻のあ」
「フンっ!」
俺が尻を見せようとすると、今度は浅沼さんの鋭いかかと落としが俺の脳天目掛けて落ちてきた。しかし、俺は素早く体を捻らせ、見事な真剣白刃取りでかかと落としを受け止めた。
「浅沼さん」
「…………何」
「白い」
「そう」
浅沼さんはかかと落としをするために足を大きく広げているため、真剣白刃取りをしている俺の位置から浅沼さんのスカートの中が丸見えなのである。
どうすれば良いか迷っていると、急に浅沼さんの足の力が増幅し始める。くそ、さっきの攻撃で踏ん張りが効かない。
「グッハッァァァァァァ!」
「旭ィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ!」
今度こそ、俺の脳天に浅沼さんのかかと落としが炸裂した。だが、不思議と痛み以外はなかった。
朦朧とする意識の中で、浅沼さんの背中から何かが、ぴょこんと飛び出していることに気付く。なんだあれ……。
浅沼さんの背中から姿を見せたそれは天使だった。いよいよ俺にもお迎えがきたか……。
純白のワンピースに身を包み、人生の終わりを告げるラッパを持っているそれは、一つだけ俺が知っているものと違っていた。
髪が黒いのだ。こういう場合の天使は全て金髪だと思い込んでいたが、今、目の前にいる天使は綺麗な黒髪なのだ。あれ、なんか乙宮に似てる気が……。
「どうしたの、しの」
その透き通るような声を聞いて確信した。目の前にいるのは天使じゃなく乙宮だ。浅沼さんの視線を辿るようにして俺の方を見た乙宮と目が合う。
気まずい空気が俺と乙宮の間に流れる。いや、気まずいと感じているのは俺だけかもしれない。
「別になんでもないわよ」
浅沼さんがため息混じりに答えると、乙宮は黙って自分の席へ歩き出した。しかし、制服の首根っこを浅沼さんに掴まれ急停止する。
「待ちなさい」
「ちょっと、何するのシノッチ」
手足をバタバタさせて抵抗するが、浅沼さんとでは体格差があり、まるで子供が駄々をこねているみたいに見える。乙宮の珍しい姿を見ながら、乙宮とそれを引き出してくれた浅沼さんに無言で合掌する。そしてしみじみ思う。すごく可愛い。シノッチ…………!
「春香……ちょっと来なさい」
そのまま浅沼さんに教室の外まで引きずられていく。一体どうしたんだ……。
「あの二人仲良いな」
「ああ、あれが噂に聞く"親友"というものだろうか」
確かに、あの二人が親友だと言われてもおかしいとは思わない。俺もあそこまでとは言わないから、乙宮と毎朝挨拶するくらいの仲にはなりたい。
少しすると二人が戻って来た。浅沼さんは不機嫌そうに、乙宮は不自然なほど無表情で、それぞれ全く違う表情だ。
無表情の乙宮は真っ直ぐ俺を見つめる。その目力に、まるで金縛りにあったみたいに体が動かなくなる。
「おひっ」
…………。
え? なんだ今の。
俺に背中を向けてしゃがんでいる乙宮の背中が小刻みに震えているのは気のせいだろうか。
「…………!」
俺の方へ振り返った乙宮は、なぜか涙目だ。乙宮は無表情と涙目というあべこべな顔で今度こそ意味のある言葉を発した。
「おは……よう」
ゆっくりと吐き出したその言葉はただの挨拶だった。いや、俺にとってはただの挨拶ではない。乙宮から、初めての『おはよう』だった。
浅沼さんは安堵したように息を吐いた。その表情はどこか嬉しそうだ。なぜなのかは分からないが。
「あ、お、おはよう……ございます」
緊張から挨拶に詰まってしまう。そして敬語。
「あ、安川、後から話あるから」
そう言うと、浅沼さんも乙宮もさっさと自分の席に座っていった。
俺はその場に立ち尽くしたまま、さっきの短いやりとりを思い出す。挨拶だけでこんなに緊張したのは初めてだ。この胸の高鳴り、まさか……。
「これが恋!」
浅沼さん。俺、自分の気持ちに気が付いたよ。
「浅沼さんとの急な運動のせいじゃ……」
「しっ! それ以上言うと話が進まない!」
そういえば、乙宮はシノッチなんて呼び方もするんだな。シノッチ……か。
☆
「おっとみやさーーん! お弁当一緒に食べよー!」
ここは地獄か。俺の顔面に容赦ない拳がぶつけられる。
「安川、抜け駆けは許さねえぞ!」
声のした方を見るとクラスの男子たちがこちらを睨みつけていた。俺はゆっくり立ち上がってホコリを払うと、爽やかに言い放った。
「まずは、ゴミを掃除しろという神からのお告げか」
「「「テメェ!」」」
男たちが一斉に襲いかかってくる。しかし、これも想定済みよッ!
俺はあらかじめ用意しておいた水ノリをズボンのポケットから取り出す。そして、それを両手に塗りたくり、バチン、と手を合わせる。
「くらえっ! ノリハーンド!」
飛びかかってきた四人の内、二人の顔を掴む。
「くっ! こんな……名前がクソダサい技に……!」
「ダサクセェ……」
「うるせえ!」
掴んだ二人を飛びかかってきたもう二人に投げ飛ばす。しかし攻撃は止まない。
「死んでもらうぜッ! 安川ァ!」
次に勢い良く飛びかかってきた男の手に何かの写真がある。
「ま、まさか、それは!」
空中でニヤリと笑う男の顔はどこまでも悪人だった。
「去年の文化祭でのお前のメイド姿だァァァァァァァァァァァァ!」
「貴様ァァァァァァァァァァ!」
写真を取り上げようとジャンプした瞬間、男の口角が釣り上がった。なんだ……。
「ハッ!」
気付いたときにはもう遅かった。
ジャンプした俺は魚雷のように突っ込んでくる男たちを回避することが出来なかった。ガードも両手だけでは足りないほどに人間魚雷は数が多かった。
そして、その内の一発が俺の腹に直撃した。
「ゔっ……」
俺の意思とは関係なく呻き声が漏れる。俺は腹にある人間魚雷の頭部を掴み着地する。そして、そのまま人間魚雷を写真を持つ男に思い切り投げ飛ばす。
「ウォラァァァ!」
男は言葉を発する暇もなく、何人かのクラスメイトと共に吹き飛ばされた。
「油断したな……」
いつの間にか、目の前でワンコが構えている。それも右腕の筋肉を最大解放した状態で。
直後、ワンコの右腕が大きくブレた。次の瞬間には、ワンコのパンチは俺の腹に直撃していた。一瞬、意識が体から置いていかれる錯覚に陥った。そのまま、俺は教室を飛び出し廊下の壁に激突した。
「やったな……」
「おう……」
Cクラスの男たちは拳を合わせたり、ハイタッチしたりして勝利を素直に喜んでいた。
しかし、
「ぐっ……がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
ワンコが突然、右腕を抑えて苦しみ始めたことで再び緊張の糸が張り詰める。
「ど、どうした! ワンコ!」
いくら聞いてもワンコは「腕が……腕が……」と呻いているだけで何が起こったか分からない。
廊下の方を見ると、ぐったりとしていた筈の男がいない。そう、この俺が。
「こっちだ」
俺は素早く男の背後に回り込み、首元に持っていたものを押し付ける。
途端に男は悲鳴を上げることもなく、ゆっくりと倒れた。
「お、お前……なんで……」
ワンコが腕を押さえたまま、苦しそうにこちらを睨む。
「ふう……さっきのはかなり効いたぜ。ワンコ」
俺は自分の制服をヘソの辺りまで捲り上げる。すると、そこには人間の肌とは違うものがあった。
「そ、それは……アダルトビディオ……!」
「その通り。これが俺を救った。お前の恐ろしいパンチも人間魚雷もこいつが防いでくれたってわけだ」
ぐしゃぐしゃになったアダルトビディオを見て、これはもう使えないな、と内心ガッカリする。
「そして、これだ」
もう一つ、持っていたものをワンコに見せる。
「くっ……ビリビリペン……」
そう、これぞ文明の利器。電流を食らってから一分間は体が痺れて動けなくなるというとんでもない代物。
「俺のパンチが当たった瞬間に……それを」
「そうだ。そして最終兵器を出した俺を止められる人間はいないッ!」
本来の目的、乙宮との昼食を果たすために俺は乙宮を探す。しかし、教室のどこを見ても乙宮の姿はない。あれ?
「やっぱり、俺嫌われてんのかな……」
まあ、嫌われてるからこそ、何か行動を起こさないといけないんだけど。
そう思ったとき、いつの間にか目の前に真人がいた。真人は無言で柔和な笑みを浮かべている。どうしたんだ。
真人は表情を崩さずに右手を大きく、天井へ向かって伸ばす。何をしているのか分からず、真人の手を見上げるが、やはり分からないので真人の顔を見る。
瞬間。
柔和な笑みを浮かべていた真人は、その顔を修羅に変えた。
「ドゥッ!」
そして、俺の頭に強い痛みと鋭い衝撃が走った。
「うるせェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ!」
あまりの衝撃に四肢が俺の意思とは関係なく、反射的に動いた。動いたと言っても、それは瞬き出来るか出来ないかの一瞬だ。しかしその一瞬で俺は押した。ビリビリペンを。
「ッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ」
言葉にならない叫びと共に、俺の体から無数の稲妻が迸った。
稲妻はその規模を徐々に増していき、最後には世界全体を滅ぼしたのであった。