この素晴らしい友人たちの裏切り
「大きくなったらお嫁さんにしてね」
どこからともなく聞こえてきた台詞には聞き覚えがあった。
小さい頃、まだ汚い世の中を知らない純粋で綺麗な頃の記憶。ここで強調しておきたいのが、あくまでこれは“今と比べて”ということであって、今の俺が汚れているというわけではないのである。
話は逸れたが、その台詞を口にした人物がずっと思い出せない。
今も関係のある誰かなのか、それとも過去に別れてしまった誰かなのか。それすらも分からない。
もちろん自分ではない。ていうか、俺が言ってたら色々とまずい気がするので、却下。
薄暗い意識の中で記憶を必死に辿るが、答えはいつまでも見つからなかった。
「…………は」
ここはどこだ! ってこれ、さっきも似たようなことなかったか?
辺りを見回す。教室にはほとんどの生徒が揃っており、その中には一年の頃も同じクラスだった赤原真人の姿もあった。
そして、乙宮春香の姿も。
隣の席では、純が机に突っ伏している。おいおい、寝てるのか? 呑気なやつだな。全く。
「おい、純。起きろよ! もう朝だぞ!」
純の肩を左右に揺するが返事がない。ただのしかばねのように見える。
「お、おい……。純?」
今度は大きく揺すってみる。しかし、相変わらず返事はない。
だが、そのとき。机に向かっていた純の顔が力無くこちらを向いた。
「こ、これは……」
純は白目を剥いて意識を失っていた。そこで、さっきの出来事を思い出す。あ、あれ? さっきのは夢じゃなかったのか?
「は、ははは……」
始業の鐘が学校中に鳴り響く。教室に若い女教師が入ってくる。各々(おのおの)で話していた生徒たちも席に着き、落ち着き始める。
しかし、俺は全く落ち着かない。ていうか、落ち着けない。一体、何がどうなって……。
あ、そうか! これも夢だ! 俺は夢の中で夢を見ていたんだ! なーんだ! そうと決まれば俺は現実世界に帰らせてもらうよ! おやすみ!
ドガッ、と。鈍い物音が教室に響く。
「なんです? 今の音は」
不審に思った教師が音のした方を見ると、そこには自分の机に頭を打ち付けて動かなくなった男子生徒の姿があった。というか俺だ。
「せ、先生! 安川くんの頭から血がっ!」
「おい! 隣のやつ、白目剥いてるぞ⁉︎」
教室がにわかに賑やかになったとさ。めでたしめでたし。
「…………」
目を覚まして、首を左右に動かした俺はここが保健室だということに気付いた。見慣れない天井(そもそも天井と気付くのに時間がかかった)になぜか不安を掻き立てられた。
「っ……。気絶でしか場面を変えられないのかよ」
よく分からないものに文句を垂れながら、またも部屋を見回すと隣のベッドで純が安らかに眠っている。
額に違和感を感じて、触れてみると大きいガーゼが貼られていた。俺、何やってたんだっけ。
何かを忘れている気がして、思い出そうとしばらく室内をぼんやりと眺めていたが、さっぱり思い出せない。記憶が途切れ途切れだ。パンチラがどうとか話してた気が……。
「ああ、起きたの」
声のした方を見ると、保健室の主である山下保奈美先生が立っていた。
「俺、一体……」
頭がズキズキと痛む。
「こっちが聞きたいわ。何があったら突然、自分から机に頭を思いっきりぶつけて保健室に運ばれてくるのよ」
「それが、覚えてないんですよね……なんでそんなことをしたんだ……?」
ダメだ、全く思い出せない。というより、思い出そうとすると頭痛が襲ってくる。まるで思い出させないようにしてるみたいだ。
「体に異常がないんだったら早く戻った方がいいんじゃない? お昼、食べられなくなるわよ」
お昼? 何を言っているんだこの人は。
「まさか、昼まで気を失ってたなんてことありませんよね。ははは。ところで今何時ですか?」
「十二時五十分よ」
「じゃあ、僕はこれで! ありがとうございました。純……そこで寝てるやつが目を覚ましたら先に行ってるぞって伝えてください」
分かったわ、と先生の返事を聞いた俺は急いで教室へ向かった。
教室の前まで来たが、少しだけ入るのを躊躇う。あんなことしたんだ。変人扱いかもしれない。新しいクラスに馴染めないのはできるだけ避けたいが、それも仕方のないことか……。
スライド式のドアを開ける。当然だが友だちと楽しそうに喋ったり、音楽を聞いたり、ご飯を口いっぱいに頬張ったりと、好きなことをしている。
「ーーおい、そこの頭のおかしいやつ」
声のした方を見ると、そこには睨みつけるように鋭い吊り目に高身長が特徴の悪友、赤原真人がつまらなそうに座っていた。
「頭のおかしいやつは言い過ぎだぞ。赤原真人」
「急にフルネームで呼ぶなよ。気持ち悪い。いつにも増して馬鹿さが増してるぞ」
「『いつにも増して』と『馬鹿さ』は余計だぞ」
「急にフルネームで呼ぶなよ。気持ち悪いが増してるぞ」
「そこ、わざわざ溶接しなくていいからな⁉︎」
「で、なんであんなことをしたんだ」
相変わらずつまらなそうに聞いてくる真人。こいつ本当に聞きたいのか?
「それが分からないんだよ。というか思い出せないんだ」
もう一度、記憶を辿って思い出そうと唸るが、やはり思い出せない。いや、本当に、なんであんなことしたんだ?
「それなら、僕が……」
振り向くと、そこには元々悪かった顔色をさらに悪くした、今にも死にそうな顔をした純が、ドアに体重を預けて立っていた。
「純! お前、大丈夫なのか⁉︎」
「ああ……なんとか。そっちの……旭の友人だね。僕の名前は真壁純。さっそくだけど……君たちは何も知らない方がいい」
純の言葉を聞いて、俺は首をかしげる。真人も俺と同じようで怪訝そうな表情を浮かべている。
「おい、真壁。それはどういう意味だ」
「そうだ。何も知らない方がいいって……」
純は視線を一瞬泳がせた後、力無く答えた。
「そのままの意味……だ。思い出すだけで、命を……ブハッ!」
「ば、バカな⁉︎ 思い出すだけで吐血だと⁉︎ いったいどれだけの衝撃が純の身を襲ったというんだ!」
「よっぽどだな。これは」
そこで、昼休み終了を告げる鐘が鳴る。純に肩を貸して席に着く。純の言っていたことも気になるがまずは授業だ。
「さあ、次は担任であるこの私の! 時間だ!」
教室に入ってきたのは、服の上からでもハッキリと筋肉筋肉しているのが分かる男。筋肉隆々をそのまま人間にしたような男。筋肉の中の筋肉。筋肉筋肉。保健体育担当、剛力武こと、ごっつぁんだった。
「ま、まさか!」
「おお、安川、真壁。保健室から戻ってきたのか。それで大丈夫だったのか」
当たり前のように聞いてくるごっつぁん。いや、それより……。
「貴様ッ! 俺は忘れていないぞ! 貴様が朝、俺に何をしたかを!」
ビシッと、俺はごっつぁんを指差す。そうだ、忘れもしない。朝、ごっつぁんの強烈なジャーマンスープレックスをくらって意識を根元からごっそり持っていかれたんだ。
「先生に向かって貴様とはなんだ。それに、あれはお前が妙なことを叫びながら気持ちの悪い顔面で、突進してきたからだろう」
あくまで、冷静になだめるように話すごっつぁんに対して、クラスメイトが俺を庇ってくれる。
「それなら、仕方がないな」
「気持ちの悪い顔面は言い過ぎだろ。見ていて殴りたくなる顔面、なら分かるが」
訂正、全く庇っていなかった。これから一年間を共にするクラスメイトに対してひどい言い草だ。
「一体何があったんだ」
ごっつぁんが呆れ顔で聞いてくる。
「それは……! お……」
乙宮が。そう言おうとして固まる。単純にクラスメイトの前で乙宮と同じクラスになりたかったことを、言うのが恥ずかしいことに気付いたのもあるが、それより、何かを思い出しそうになる。なんだ、俺は何を忘れているんだ?
「まあ、落ち着け。俺たちもごっつぁんが担任というのを知って一度はそうなった」
熱くなっていた俺に、右腕の筋肉だけが異常に発達した男、通称ワンコが優しく話しかけてきた。
「大丈夫! 俺たちが力を合わせれば乗り越えられない壁なんてない!」
「ああ! 俺らCクラスは無敵だ!」
「最強の絆見せてやろうぜ!」
他のクラスメイトたちもワンコに続いて優しく励ましてくれた。なんだか心が生温かい。
「……すみませんでした」
俺は大人しく席に座り直す。
「よし、それじゃあ、お前たちにはこれから自己紹介をしてもらうぞ」
ごっつぁんが教卓を勢いよく叩くと生徒たちが、ざわざわと、一気に落ち着きをなくしていく。
「午前にやってないのか……?」
独り言のつもりで呟いたはずが、クラスメイトに聞こえていたらしく反応が返ってくる。
「バカヤロウ! 自己紹介っていうのは全員揃ってなんぼだろうがよ!」
「そうだ! 俺らCクラスは全員で一人だ!」
「最強の絆見せてやろうぜ!」
「みんな……」
友達思いのクラスメイトに、ほんの少しだけ涙ぐんでしまう。途中から、わけ分からんかったけど。
「よーし。丁度いい。自己紹介はお前からだ。安川」
ごっつぁんに指名されて立ち上がる。新クラス一日目の自己紹介。これはかなり肝心だ。ここは少しだけ大人なイメージを持たせていこう。
「安川旭です! つい最近、彼女が出来ーー」
そのとき。何かが俺の頰を掠めていった。頰に浅い切り傷が入る。恐る恐る振り向くと、壁にペンがめり込んでいた。
なん……だ?
「オラ、続けろよ」
誰かがボソッと呟いた。教室の空気がさっきとは比べものにならないほど冷え切っている。主に男子。
「じゃあ改めて。安川旭です! 最近彼女がーー」
「「「死ねェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェッ!」」」
俺は咄嗟にしゃがみこむ。するといくつもの文房具が上から落ちてきた。恐る恐る顔を上げると、さっきまで俺が立っていた真横の窓にひびが入っている。ものすごい勢いで文房具が投げられたことを窓のひびが物語っている。
さっきの叫び、一人のものじゃない。これは……。
「おい! 何するんだ!」
返事はない。くっ、こいつら! 絆はどこにいったんだ! 絆は!
「しかし、所詮はバカの集まり! 三人寄っても文殊の知恵一つ生み出せないやつらッ!」
今、ここにはごっつぁんがいるんだ! 貴様らは俺に手も足も出せない!
俺はここぞとばかりに、自己紹介を続ける。
「えー。昨日も一日中、彼女とイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャッ! してました!」
もちろん、嘘だけど。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
「俺ら、Cクラスの全力をもって潰す」
「最強の絆……今、見せてやるよ」
さっきと言ってることが全く違う友達思いのクラスメイトであった。
「先生。安川君は自ら、学生の本分である勉学を疎かにして、不純異性交遊に勤しんでいると公言しました。到底、許されないと思うので安川をぶっころ……調教する許可をください」
「もしかしてぶっ殺すって言おうとした⁉︎ というか調教に変えればいいってわけじゃないからな⁉︎」
「ダメだ!」
純の言葉にごっつぁんは、はっきりと言い切る。その言葉に純だけでなくクラス中の男子がざわめく。
「……先生」
あんたって人は……!
「くっ! なぜですか! こんなクズを生かしておくなんて」
「そうです! なんでですか! こんなクズを!」
「クズでカスを!」
「おい、うるさいぞ童貞ども! 先生がダメと言った以上、貴様らは大人しくせざるを得な――」
「今が授業中だからだ! そういうのは休み時間に好きなだけしろ」
教室が静寂に包まれる。
「………………?」
「さあ! 授業授業」
「自己紹介続けて行こうぜ!」
「次は俺の番だな!」
何事もなかったかのように自己紹介が進められようとする。え? いや、ちょっと!
「せ、先生! 僕の命がどうなってもいいって言うんですか! 自分の責任にならなければそれで良いと言うんですか!」
なんとか自己紹介を中断させて、ごっつぁんに抗議しようとするが押し寄せる勢いがそれをよしとしない。くそ……一瞬でも、あんたを信じた俺がバカだったよ!
仕方なく、大人しく自己紹介を聞くことにした俺は真人以外にも見知った顔が何人かいることに気付く。
「浅沼由乃です。演劇部です。よろしくお願いします」
抑揚のない声で軽く自己紹介を済ませたのは、一年の頃、同じクラスだった浅沼由乃さんだ。スッキリとしたショートヘアで一見、普通の女子だが、実はあれでめちゃくちゃ喧嘩が強い。昔、暴走電車とかいう中学生の不良集団を、当時、小学五年生だった浅沼さんが一人で壊滅させたという噂を耳にしたことがある。
「俺の名前は――――だ。皆には『腕』と呼ばれてるが、まあ、好きに呼んでくれ」
名前のところがよく聞き取れなかったが、とにかくだ。右腕の筋肉だけが異常に発達していて、制服が合っていないのか肩のところからごっそり破けてノースリーブになっている、まるで世紀末な男子生徒。ワンコも一年の頃、同じクラスで仲が良かった。ちなみに『腕』と呼ばれていると思っているのは、本人だけだったりする。
「真壁純です。この春に引っ越して来ました。勉強がすごく嫌いです。新しいクラスに馴染めるか不安でしたが、楽しそうなクラスで安心しました。一年間、よろしくお願いします」
今の何を見て楽しそうなクラスだと思ったんだろうか、この子は。
「乙宮春香です……よろしく」
無愛想に、簡素に挨拶を済ませたのは、学年一の美少女と名高い乙宮春香だ。いやー本当に美少女だ。美少女たが、何かが、引っかかる。
「赤原真人。好きな食べ物は肉で、嫌いな食べ物は特にない」
一通り、自己紹介も終わってごっつぁんが前でこれからのことについて話している。けど、なぜだろう。静かなんだけど、静かじゃないというか。不自然なまでに自然だ。
そのとき、ガリガリと何かを削るような音がごくわずかに聞こえてきた。
音の出所を探すと、一人の男子生徒が鉛筆の芯を懇切丁寧にハサミで削っている。先を鋭く尖らせた鉛筆はもはや凶器だ。鉛筆だけじゃない。ペンや定規、コンパスにシャープペンシルの芯。今、必要のないはずの文房具が軒並みメンテナンスされている。
ああ、分かった。この不自然さの正体が。
殺気だ。恐ろしいほど粘着性を持った殺気が空気にまとわりついている。
この時間の半分を費やして話したごっつぁんのありがたい言葉はみんなの(男子の)耳に届かずに授業は終了した。
「それじゃあ、終わるぞ」
ごっつぁんの合図で委員長が挨拶をする。声で委員長が乙宮だと気付くが、今はそれどころではない。
「ソイヤッ!」
あらかじめ、取り出しておいたノートで飛んでくる文房具を防ぐ。
「「「チッ!」」」
誰かが舌打ちをするが、攻撃は緩まらない。文房具が雨のように飛んでくる。
「終わりだ!」
また、誰かが叫んだ。飛んでくる文房具を俺は机の下に潜ってやり過ごす。
「お前に逃げ場はない。大人しくやられろ!」
その言葉を聞いて俺は笑みをこぼす。
「それはどうかな」
「何……?」
「隙あり!」
俺は一瞬の隙をついて教室を飛び出す。ここまでくれば俺の勝ちだ!
「あっ! 安川が教室の外へ出たぞ! 追え!」
「おおおおおお!」
生徒たちは勢いよく廊下へ飛び出してくるが、そこで驚くべき光景を目にする。
「なっ……! 安川のやつ……」
そこには、ごっつぁんこと、剛力武に質問をする高校生の姿があった。というか、俺だ。
「で、先生。さっきの授業の質問なんですが……」
ごっつぁんがいればやつらは俺に危害を加えられない。つまり、このまま休み時間が終わるのを待っていれば俺の勝ちだ!
「く、くそ……!」
これぞ、名付けて、教師肉壁!
「さっきの授業の質問? 一体何を質問するんだ」
「え、えっと……それは」
しまった! さっきの授業は自己紹介とごっつぁんのフリートークだけで終わったんだった! くそ、こうなったらフリートークを攻めていくしか……。
「いや、ごっつぁ……先生が話してくれた進路のことについてなんですが……」
「進路の話? 俺が話したのは筋肉の話と愛用しているプロテインのことだぞ。お前、さては私の話を聞いていなかったな」
しまった! まさか、筋肉とプロテインの話だなんて誰が予想出来ただろうか。ていうかなんの話をしてるんだ、この筋肉バカは。
「い、いえ……将来は立派な大胸筋になろうと思っていまして……それで、どういう進路に進めば良いのか聞きたくて……」
一体、俺は何を聞いてるんだ⁉︎ この言い方だと、俺が大胸筋になりたい変人みたいなんだが!
「お前……俺の学生時代の夢を……。分かった! 今日の帰りまでに資料を用意しておこう!」
そう言うとごっつぁんはさっさと行ってしまった。心なしか機嫌が良く見える。ていうか、え? 学生時代のなんだって?
「ヤァァスゥゥカァァワァァクゥゥゥゥン!」
振り向くと、そこには狂気に染まったクラスメイトたちがいた。はは。
「やあ、ところで彼女がいるっていうのは嘘で、実は生まれてこの方、彼女なんて出来たことがないんだ。全く、彼女持ちって憎いよな」
それを聞いたクラスメイトたちが今度は一瞬で笑顔に染まっていく。
「なんだ、疑ってすまなかったな!」
「なんだよー! くだらない嘘つきやがってー!」
「危うく殺すところだったぞ。ははは」
「最強の嘘だな!」
「俺でさえ一回くらい出来たことがある……って嘘嘘! 嘘だよ! すみません、見栄張りました!」
肩を組んできたり、腹を抱えて笑ったりしているクラスメイトたちを見ていると、案外悪いやつらじゃないんじゃないかと思った。
「あれ? 春香。そのあんぱん、なんか潰れてない?」
「……気のせい」