プロローグ
よろしくお願いします。真面目に頑張りたいです。
夕暮れ。
静まり返った教室。
一年間、辛いときや苦しいとき、命の危険に晒されたときも一緒だった机。表面には無数の傷がある。窓から差す橙色の光に照らされる姿には、一年前とは違い、貫禄があった。
「こいつには、何度助けられたことか……」
机だけじゃない。椅子、教卓、カーテン。この教室の全部が俺の命の恩人、ならぬ命の恩物であり、戦友だ。
「お礼を言わないとな……。一年間、本当にありがとう」
教室全体に、薄く、染み込ませるように呟く。それにしても……この一年、色々あったなぁ。
「――おい」
感傷的な気持ちに浸っている俺は、突き刺すような鋭い声が聞こえたので振り返った。
教室の出入り口。開け放たれたスライド式のドアにもたれて腕を組んでいるのは、睨みつけるような鋭い吊り目に、高身長が特徴的な俺の悪友、赤原真人だった。
「早く行くぞ、馬鹿」
「バカは余計だバカ」
「馬鹿はお前だ。さっさとしろ馬鹿」
そこで俺は返事をせずに教室の出入り口へ向かう。
「…………」
出入り口の前まで来た俺は、ドアにもたれるのをやめてこっちを向いた真人の方へ笑顔を見せて喋る。
「待たせた。行こう」
真人も笑顔で
「そうだな。行こう」
と言った。
「…………」
しかし、なぜか俺も真人も一歩も動こうとしない。それにもう一つだけ。
「真人くん、痛い。足踏んでる」
なんでこいつ、俺の足を踏んでくるんだよ。
「それは、お互い様だ。お前も俺の足を踏んでる。さっきから、左足の中指が痛くて堪らないんだ」
あ、俺が真人の足を踏んでるからか。
「「はははは」」
俺と真人の笑い声が重なる。
傍から見れば(足を踏みあっていることを除いて)俺たちは仲のいい友人同士だろう。
なんて甘い考えはすぐに破られる。
真人が俺の顔面へ向けて右拳を放ってきたからだ。間違いなく当たったら痛いだろう。
しかし、俺はその拳を避けることなく受けた。
受けてしまったのではなく『受けた』だ。
受けた理由は一つ。俺も同じタイミングで、自分の右拳を真人の顔面へ放っていたからだ。ここで真人の攻撃を避けてしまうと、俺自身の攻撃の威力が大幅に下がってしまう。
なんとか真人の攻撃を我慢して受けたけど。これがもう痛いのなんのって。泣き叫びたい。こいつは手加減って言葉を知らないのか。
とはいえ、俺の右拳も真人にしっかりと命中している。きっと痛いはずだ。
だが、俺も真人も笑顔そのままで、互いの頰に放り込まれた拳を放置して喋る。
「……痛いじゃないか。旭。たった一人の友人に対して酷いことするぜ」
「友人? ああ、図鑑で見たアレね……。美味しそうだったなあ」
お米とよく合うんだよなアレ。
「お前が何と間違えているのか知らんが……少なくとも俺は美味しくないぞ」
それを聞いて呆れてしまう。何を今更。
「言われなくても、見た目でわかるわ!」
第一印象が不味そうだったのを覚えている。
「コイツ!」
途中で止まっていた真人の拳に再び力が籠るのが分かった。俺もそれに合わせて拳に力を込める。そして、押し込む!
「ぐえっ」
つもりだったのだが、真人の動き出しの方が速かったので、こちらが拳を押し込む前に吹き飛ばされてしまう。
「ぐっ……」
「おいおい、そんなもんかよ。馬鹿」
倒れている俺に、挑発するような笑みを浮かべる真人。
くっ、まだ……だ。
「……負けられない」
俺は立ち上がって真人を睨みつける。
「どうしてだ、どうして立ち上がる。お前がそこまでムキになる理由は無いだろう」
理由? 理由ならある。
俺には負けられない理由がある。
そうだ。こんな……こんな……
「人をバカ呼ばわりするやつに負けてたまるか!」
よくも、俺をバカ呼ばわりしたな! 許せん!
「てめえも、俺に馬鹿って言っただろうが!」
「バカにバカって言ってなにが悪いんだよ!」
「俺は馬鹿じゃねえ!」
強情なやつめ。こうなれば精神攻撃だ。
「真人、お前は『嘘つきは泥棒の始まり』って言葉を知ってるか」
「何だ、突然……知ってるに決まってるだろ」
知ってたのか……意外だ。
「その『知ってたのか……意外だ』とでも言いたげな顔をやめろ」
「知ってたのか……意外だ」
「言いやがった……で、その言葉がどうしたんだ」
真人が聞いてくるが、言葉とは裏腹に興味の無さそうな顔をしている。
「つまり、お前はバカだってことだ!」
人差し指で文字通り、真人を指差す。
すると、真人は「はああ」と大袈裟なため息をついた後に、こう言った。
「俺まで馬鹿になりそうだ。意味の無い会話だ。時間の無駄だ。殴り合っている方がマシだ」
酷すぎる! この毒舌マシンめ! 鬼! 猿! 雉! 犬! 桃太郎!
「大事な親友に対して酷すぎるとは思わないのか。真人、俺は胸が痛い」
薄く微笑んで明後日の方向を見る。これで儚さを演出できたはずだ。
「親友? ああ、テレビで見たアレか。美味そうだったな。特に、親友炒めは画面越しでもよだれが止まらなかったほどだ」
「こいつ……親友を食べ物と認識してやがる」
「お前もさっき似たようなことを言ってただろ」
え? 何だっけな。
「ああ、人類焼きの話か」
俺は、ポンっと、手の平を叩いた。
「そんな物騒なことじゃない……この馬鹿!」
いつも話すときより少しだけ口を開けて、真人は怒鳴る。
「あ! またバカって言ったな!」
「当然だ! 意味の無い話ばっかりしやがって!」
「失敬な! この会話めちゃくちゃ重要だぞ!」
「うるせぇ! お前もう喋んな!」
ふと思ったけど、この会話って効果音にすると『ワーワー』だよな。関係ないけど。
「あー! 埒があかねえ」
真人は自分の頭を二、三度掻き毟った。何イライラしてるんだ。
「落ち着けよ、真人。ここは茶でも飲みながらゆっくり話をしドブベォ!」
左頬に衝撃と痛みが走った。
端的に言うと殴られた。
もちろん、殴ったのは真人だ。痛い。痛いくらいの感想しか浮かばない。全く、酷いやつだ。
そうして、空中浮遊真っ最中の俺、安川旭は走馬灯のように流れる記憶を味わう。
この一年を。
輝かしく懐かしい。眩しくて寂しい。
楽しくも苦い。
遠いようで近い。
あの日々を。
俺は――思い出す。