ほつれ糸
ショートショートになります。(3,442字
「朝ご飯はー?」
「うーん、時間ないからいいよ」
平日の朝。いつもより少し慌ただしい足音と、大きな声が忙しなく行き交う。
「よいしょっと!」
玄関で男は革靴を履く。そして鏡の前に立ち、身だしなみを改めて確認する。映し出されたスーツ姿を見て、だいぶ決まるようになってきたなと男は思った。それでも、どこか初々しさが残っているのは入社して間もないから、というわけではない。
「あなたー、ICカードと携帯は?」
「あっ! 携帯だけお願い! テーブル横のコンセントの近く!」
ハイハイと言ってやってきたのは、エプロン姿の女性だった。お弁当を作ってくれていたはずだが、その左手の薬指にはまだ新しい指輪が収まっている。
「はい、忘れ物」
女の手には携帯と一緒にハンカチが添えられていた。
「あ、ありがとう!」
男はその両方を受け取って、ポケットに収めた。
「今日の帰りはいつぐらいになりそう?」
「う~ん、遅くなるかも。プロジェクトリーダーになってからは、仕事もかなり任せてもらえるようになったからね」
「そう……。でも、なるべく早く帰ってきてね。待ってるから……」
その寂しげな笑顔を見て、男は思わず女を抱きしめる。
「わかった。できるだけ待たせないようにするからな」
「……うん!」
「じゃあ、行ってくるよ」
「あ、糸がほつれてる」
女は男の肩についていた糸を取り上げた。
「まいったな、まだ新しいのに……。じゃあ今度こそ」
「うん、いってらっしゃい!」
二人は最後にキスをして、男は家を後にした。
「……もう、出る前に困らせてどうする」
見送りを終えてから、女は両手で頬を叩いて気合を入れなおす。決しての男の枷にはなるまいと、女は自身の心に決めていたのだった。
そんなとき、ふと妙なことに気がついた。
「なに、これ?」
それは先ほど手にした糸だった。
取ったときには気が付かなかったが、糸は切れずに玄関の扉に挟まる形でピンと張っていた。
女は大変だと思い、急いでドアを開けた。しかし糸はドアを抜けても、門扉、道路、そのずっと先へ伸びて続いていたのである。
女は急に恐ろしくなった。早くこの糸のことを男に知らせなければ、そう思い女は急いで仕度し、家を飛び出した。
道路を抜け、駅へとたどり着き、電車に乗った。しかし不思議なことに、糸が途切れることはなかった。おかげで男の通った跡を、見失うことはなかったのだが。
女は糸を拾い集めては男の跡を追う。その行先は都心のオフィスビル、平たく言えば男が務める会社のある場所だった。
女は本社の受付を訪ねると、男に取り次いでもらえるようお願いすることにした。しかし男は外に出てしまったようで、不在とのことだった。それでも事態は急を要する。あの糸はずっと男からこぼれ落ちているのだ。このまま放っておくわけにはいかないと、女は必死に事情を説明した。
最初は丁寧な応対をしてくれていた受付嬢だが、最後には
「……申し訳ありませんが、そのような不明瞭な理由でのお取次ぎはいたしかねます!」
とこちらの要求を一切はねのけた。やはりこんな話は誰にでも信じられるものではないのかもしれない、と女は思った。
しかし女の手元には糸があった。
その糸を手繰り寄せていくと、運よく会社を降りていく跡を見つけることができた。
女は喜んで、再び糸の跡を追うことにした。
糸は様々なところに続いていた。駅、レストラン、デパ地下、土産店などなど―――女にはよくわからなかったが、会社に出勤したサラリーマンには、あまり似つかわしくない場所が多く含まれているように思えた。
それどころかどんなに糸の跡を追いかけても、男のもとにはたどりつけない。さすがにこれはおかしいのではないか、女の中でもふつふつと疑問が渦巻いていた。
そして、ついに女は男を見つけられないまま日が暮れようとしていた。
女は各地を転々と歩き回り、すでにへとへとだった。足も棒のように動かない。それでも男のことを思えば、このくらいはどうということはなかった。
それに、おそらく次で最後だろうと女は考えていた。
糸はとある一軒家へと続いていた。ここに男はいるに違いない。根拠はないがそんな確信めいた予感が女にはあった。
チャイムを鳴らし、インターフォン越しに名乗って、解錠を待つ。
扉が開くと、中からは現れたのは女よりは少し年上だろうと思われる女性だった。
女の予感が確信へと変わった。
「……失礼ですが、どちらさまですか?」
不審そうな視線を向ける女性。女は素直に自分の素性を明かすことにした。
女性は話を聞くうちに身を震わせて、ついに話の途中で家の奥へと引っ込んでしまった。
逃げられたのかと女は思ったが、そうではなく、女性は風呂場にいた男を引きずり出して戻ってきた。
男は女を見た瞬間、ぎょっとした表情を見せた。
女性は男としばらく言い争いをしたあと、最終的には女に詰め寄って、その頬を引っ叩いた。そして一言。
「私の夫に、なんてことをしてくれたんですか!」
◇
女はしばらくの間、家に引きこもっていた。
あれから男とは一切連絡をとれていない。もともと妻の監視の目が厳しく、携帯へ不用意に連絡することさえ控えていたことを考えれば、当たり前すぎる話でもある。
それでも、女は男のことを思って毎晩涙を流していた。
たとえ籍を入れていなくとも、気まぐれでもらった指輪だとしても、ここで暮らした男との生活は、間違いなく女にとっては「幸せ」そのものだった。
女はどうしようもないくらい、あの男のことを愛していたのだ。
「もう、会えないの……?」
とうに底をついたはずの悲しみが、目元いっぱいにこみあげてくる。それを拭い去ろうとして初めて、その手に絡まる存在に気付いた。
あの日、女が見つけたその糸に。
結局、男に糸のことは話せずじまいだった。それでも、今はこれだけが男と女を結ぶ唯一の繋がりなのだ。
正直、断ち切ってしまおうかと思ったこともある。それでも女にとっては、どうしても切っても切れない関係、この糸はその象徴だった。
「ちゃんと、話そう。この糸の先に、あの人がいるなら……」
女は糸をつかむと、それをひたすら手繰り寄せた。
その糸がどれだけの長さか、女は身をもって知っている。
しかしこちらから男の家に行けない以上、会うためには、この糸で繋がっているであろう男を引き寄せるしかないと女は思った。
幸いにして、と言っていいのかはわからないが、糸が切れることはなかった。そのため女は四六時中糸を引っ張り続けることになった。
しかし、一日でも手繰り寄せるには足りなかった。二日、三日、いやそれ以上の時間を、女は糸を引くことに費やし続けた。ただ男ともう一度会いたい、そんな一心で。
引っ張っても、引っ張っても、引っ張っても、糸の先は見えない。あとどれくらい残っているのかもわからない。先の見えない孤独な作業。
女の足元には手繰り寄せた糸が山のように堆積している。それでも女は引っ張り続けた。
もうどれくらい続いたのか―――女から時間の感覚は消え失せていた。それどころか手や指先の感覚もない。おそらく手はボロボロでひどい有り様になっているのだろうが、そんなことも気にかけず、ひたすら引っ張り続ける。
そんなときだった。
玄関からチャイム音が鳴り響いた。誰がやってきたのかはわからない。しかし女には誰が来たのかすぐさまわかった。二人はずっと繋がっていたから。
女は玄関に駆け出すと、勢いよく扉を開け放つ。ずっと言える日を待ちわびていた、この言葉とともに。
「おかえりなさい!」
しかし、扉を開けた先には、誰もいなかった。
呆気にとられる女。ふと足元に目を落とすと……、
そこには男性用のスーツ、ワイシャツ、カバン、靴下、革靴といった紳士服一式が落ちていた。
状況が理解できず、見渡すように視線を横に向ける。次の瞬間、女はすべてを悟った。
スーツと一緒に、そこには土産店で買ったと思われる菓子箱、そして、先のない糸が横たわっていたのだ。
女は糸を拾いあげると、その先に何も繋がれていないことを確認する。
……そうか。この糸は衣服からほつれたものなんかじゃない。これはあの男そのもので、そこからはみ出たほつれ糸だったのだ。
女は呆然としてバランスを崩し、後ろから倒れてしまった。
頭から落ちてしまったが、玄関に積み上げられた糸の山で和らげられ、大事には至らなかった。代わりに無数の糸が、女の皮膚を傷つけた。
女はもはや満足に動かない指先で、そっと糸をすくいとってみせる。
それは、女の鮮血を身にまとった、美しき赤い糸だった。