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「奥に布団を敷きました。この辺りには民宿もありませんし、泊まっていってください。」

「恐縮です。」

奥田は須玖工匠に頭を下げた。

「先程から厚かましいことばかり言いまして…」

「いえ、そのようなことはありませんよ。泊めるといってもこの通り、家事無精な年寄りの家ですから、粗末なもてなしですがご寛恕ください。今回のペンダントの件は手前の信頼にも関わることですし、何も厚かましいことはございません。」

須玖さんはそう言いながらお茶を円卓の上に出した。終電に乗り遅れていなければそろそろ彼女が来る時間だった。一口もらうと、心地よく冷たかった。クーラーは無く、扇風機だけで涼んでいた。それだけで十分だった。タクシーでここまで来る時山道かと思うほど坂が急で驚いた。その分標高が高く、気温が低くなるのだろう。もしくは、アスファルトやコンクリートではなく森に囲まれているからかもしれない。地球の反対側へ来たように暑さは感じられず、秋の虫が綺麗な羽音を奏でていた。2人の間に会話が無くとも、心の深いところで共有できる沈黙が下り、夜闇の静けさに浸かることができた。

玄関の扉がガタガタとなった。安らいでいたところに突然の音で躓いて、意識は危うく転びそうだった。それは待っていた客人が到着したということだった。本来は僕が客なのだが、闖入したという意味では彼女の方が客に近かった。彼女の足音は迷わずこの部屋に向かってきた。そして、襖が引かれた。

「初めまして。須玖の娘、小夜子と申します。」

彼女は予想通り僕のことを覚えていなかった。

「初めまして。奥田勝です。今回は遠い所から足を運んでくださりありがとうございます。そこで、早速本題に入りたいのですが。」

「はい、これのことですね。」

彼女はネックレスを鞄の中からハンカチに包んで差し出し、僕らの間にあった円卓の上にそれを置いた。

「よく覚えてる。間違いなく、私の作った物だ。」

彼女は深深と額を床に近付けた。

「申し訳ありません。」

「一体、どういう経緯で貴方の所に?」

「それは、」

彼女が頭を下げたまま話そうとしたので、僕は、構いませんからもう頭を上げてくださいと言った。顔を上げた彼女の瞳には涙が浮かんでいた。

「それは、あたしの一言が発端だったのだろうと思います。」


夫と一緒に買い物に行った時だった。小夜子はジュエリーショップのショーウィンドウに目を止めて立ち止まった。

「君が宝石に関心を持つなんて珍しいね。」

夫もその視線の先を追った。

「昔の話なんだけど、父の作ったラリエットの飾りに一目惚れしたことがあったの。」

彼女の視線の先には亀の飾りのついたチェーンネックレスがあった。

「買おうか?」

「いえ、これとは全然違うのよ。これよりも小さな亀で、よくみると細部まで丁寧に細工されていたのよ。特徴があるって訳でもないけど、まるで生きているみたいだったわ。」

「もし今それが目の前にあったら欲しい?」

「そうね、欲しがるでしょうね。でも、オーダーを受けて作っていた物だから、同じ物にまたお目にかかることはないでしょうね。」

「注文した客は分かる?」

「それがね、驚いたことにあの栗源恭介なの。まだ有名では無かった頃なんだけど、一目惚れした銀細工だったから覚えちゃったわ。」

「いつかプレゼントするよ。私は何でも出来るから。」

「期待しないわ。それよりも早く帰りましょ。」


「昨日の夜これを彼から贈られた時、声が出ませんでした。記憶の中のあの飾りと寸分違わずなんですもの。本物だから、当然だったんですが。まさか、盗むような真似をするなんて……。」

僕はその亀をよく見た。確かに、言われてみればどうしたらこんなつぶさに表現できるものだろうかと感心した。

「ちょっと貸してください、これが本当に私が彼の娘さんのために作ったものかどうか、判断する方法があります。」

須玖工匠は僕からネックレスを受け取ると、爪を立てて亀の脇腹をくすぐるようにした。すると、ぱかりと甲羅が蝶番式に開いた。

「うん、間違いない。オーダーでね、サイズを指示されたんですよ。亡くなられた奥さんの写真を入れて娘さんに持たせたいということでね。」

亀の飾りはロケットになっていた。その中に小さく、切り取られた写真がピタリと入っていた。ぱっと見レイコさんかと思ったがすぐに彼女の母親なのだと分かった。

「生前の唯一の写真だということでね、小さ過ぎて普通のロケットでは合わなかったそうだ。」

須玖工匠は丁寧にその蓋を閉じ、僕に差し出した。飾りを下げる紐は亀の中にあった物に比べてかなり新しかった。それは、紐を交換しながら飾りを肌身離さず持っていたということだろうと推察した。レイコさんは、仕事中でも離したことはないと言っていた。もし紐を子ども時代から変えていないのであればもっとボロボロになっているはずだ。

「僕は、これを本来の持ち主のところに返せれば十分です。貴方のおかげで事情が飲み込めました。ありがとうございます。解決しました。もう済んだことなんですよ。」

泣いている彼女を見ないようにしながら僕は言える限りの言葉を尽くした。

翌朝早起きの須玖工匠に半ばつられるようにして、僕は目を覚ました。斜陽が眩しい。朝露がそれを反射してより一層眩しくしていた。目に入る物全てが輝いている。僕は須玖工匠の朝食づくりを手伝おうとしたが、まず風呂を沸かしておいたので入ってきてほしいと言われた。確かに、僕は3日前に風呂に入ったきりだった。裏に風呂場があるということで見てみると、小川とドラム缶があった。ドラム缶の下の薪は燃え尽きた後で、中には湯が入っていた。少し熱めだったので小川で身体を洗った後、ドラム缶に入った。踏み台が軋んだので壊れやしないかとビクビクした。湯は丁度いい加減になっていた。底には簀が敷かれてある。僕は暫く木々を見つめながら亀のネックレスのことを考えた。それが辿った経緯を思い起こした。レイコさんのネックレスを赤の他人に渡してしまった僕。それが罪悪感になったのだろう。僕は亀のネックレスを追いかける旅に出ることになった。亀のネックレスは僕を色んな人に引き合わせた。その大半がどうでもいいものだったが、中には須玖さんのように会えてよかったと思う人もいる。

風呂から上がると、須玖さんと小夜子さんは既に朝餉の準備を終えていた。いただきます、合掌してそれぞれが箸を持った。

「小夜子は、もう帰るのか?」

漬物を咀嚼する口を手で隠して彼女は答えた。

「今日のところは帰るわ。また来る。」

「そうか。」

須玖さんは初めて僕らの前で顔を緩めた。小夜子さんも驚いたらしく、まじまじとその表情を見つめていた。

味噌汁の中の揚げを食べていると、小夜子さんがこう切り出した。

「そうだ、奥田さん。良かったらあたしと一緒にタクシーに乗って割り勘しない?」

僕はとくにそれに異論はなかったので頷いた。ごちそうさま、と呟くと彼女は隣の部屋に移り、タクシー会社に電話をかけた。席に戻ってきた時、僕も食べ終えて食器を水場に持って行くところだった。

「2、30分で着くそうよ。」

「分かった。食器を洗っていれば直ぐだね。」

彼女は僕の側に来ると、囁いた。貴方に相談したいことがあるの。僕はタクシーの件かな、となんとなく思って頷いた。

「分かった。でも自分の分くらい洗ってから。」

「あ、あたしも洗うわ。」

横に並んで、彼女は重い口を開けた。

「やっぱり、ここで言ってしまうわ。貴方、確か主人の集会に来ていたわよね。」

忘れられているものと思っていた僕は、危うく茶碗を落としそうになった。

「覚えられているとは思っていませんでした。はい、その通りです。」

「貴方は、主人の話を聞いてどう思った?」

なんという答えが困難な質問だろう。はっきり言えるほど僕は肝が据わっていない。答えかねている僕の意図を察してか、彼女は続けた。

「周りの人は皆彼を讃えるの。でももう、あんなことは止すべきだとあたしは思う。多分、夫は、」

彼女は一息、躊躇った。

「気が狂ってしまったのよ。だってそうでしょ。御題目とか自分は預言者だとか、あたしはもっとまともな話を彼としたい。貯金とかニュースの話題とか、子どものこととか…。でももう彼は私の言うことなんか聞いてるようで聞いていないの。預言に囚われてあたしのことを忘れてしまった。別れようかと思ってるの。」

彼女は自分の言ったことに驚いたように目を見開いて僕を見た。僕は止まっていた皿洗いを再開して視線を逸らした。

「僕には、分かりません。貴方のことは貴方にしか分からない。人から貰った解答なんて当てにならないんです。だって、人からこうしろって言われてその通りにしても、貴方が納得できるかどうかの問題は避けられないんです。自分で納得出来なければ何をしても無意味です。絶対後悔することになります。」

僕達は暫く黙っていた。そしてエンジン音が木々の間から徐々に近付いて来た。タクシーが来る時間になっていた。須玖さんにお礼を言った後、荷物を乗せて僕達は工房を離れた。タクシーの中でも彼女は物憂げに窓の外を眺め、一言も発しなかった。タクシーの料金を払い宇都宮駅に向かう間も、僕らは隣の座席に座っているにも関わらず何も話さなかった。須玖さんと過ごしている時とは全く異質な、意図的な沈黙だった。それは案外僕には応えた。なので宇都宮に着いて別の新幹線に乗るのだとなった時、僕はようやく酸素の豊富な呼吸ができたと感じたくらいである。別れ際、彼女は僕の肩を叩いた。今度は何を聞かれるのかと僕は焦った。

「ありがとうね。」

予想外の言葉だった。

「何が?」

「貴方がいなかったら、あたし彼のことも父のことも諦めたままだった。でも貴方のおかげでちゃんと考える機会ができた。主人とは話し合ってみる、色んなことをね。だから、ありがとう。さようなら。」

彼女はそれだけ言うと振り返らずに人混みの中へと消えていった。数十秒立ち尽くして、僕は僕の向かうべき方向へと歩きだした。

新幹線を待つ間、時間が空いたので僕は売店にお茶を買いに行った。刷りたての朝刊が並んでいる。お茶と金を台の上に置いて、会計を待つ間、ふと視線がそちらに向かった。その内の一部、一面にはこう書かれていた。

『女優 栗源レイコ不審死』

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