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電車に乗る前、レイコさんに電話をかけた。正確に言えば、僕は僕の携帯電話で、僕の部屋の固定電話にかけた。彼女はすぐに出た。
「ネックレスは見つかりそう?」
僕はまだだ、と答えた。
「仕事中でも離したことが無いのに、なんで貴方の家に忘れていってしまったのかしらね。」
溜息がザザザ、と鳴った。
「でもあと少しだよ。」
携帯で須玖工房の所在地を調べる。京浜東北線に乗り、赤羽駅で降りるまでの間、身体は疲弊しているのに眠気は全くこなかった。ついさっきまで会っていた人達のことを思うと胸がムカムカした。お年玉葉書の籤に当たったり、リウマチの痛みが引いたりしたところで、一体何をするというのだ?良かった良かった、御題目は本物だったと喜んで、そこから何をすべきか真剣に考えているのか?医学部に晴れて入学できたあの青年も、実際は自分の努力の結果なのに、御題目様万歳となった結果、どうなるか。入学してから真剣に勉学に励むことはしないだろう。何故なら「御題目のお陰で合格できた」から、今後の試験の結果も「御題目のお陰で」通ることが出来る。そんな教義はどんな人間を育むか。努力せず、寄生虫みたいに教義にくっついて、それなしでは生きていけない、極端に無力な人間を産むだけだ。幸福製造機どころか無気力人間製造機になってしまう。
僕があの集団の一部になったらどうなるだろう。
「善をしなさい」とお告げが下る。僕は良いことをする。それから御題目を唱える。僅かな幸せでも御題目のお陰だと感謝しながら生きるだろう。そしてより一層魂の修練に励むのだ。無に帰らないように。
僕の欲望は御題目によって叶えられる。妻が欲しいとか、金持ちになるだとかだ。僕は幸せになる。けれどそれは、話し始めで語られたとおり、儚いものだ。全てゼロになるものばかりだ。さらに言えば欲望自体が魂を穢れさせるのではなかろうか。
ちょっと自分より考えていそうな人間に飛びついては、頭の中は空なのに、乗っかって自分も偉いんだと思い込む。そんな人間が、無責任と「教祖」を生みおかしな方向へ人を誘導する。カルトの誕生だ。新興宗教という意味のカルトではない。僕ははっきり、邪教という意味で使った。山内達は自分の属する集団を宗教団体とは思っていない。しかし日向という1人の人間の言うことに間違いは無いと信仰している。じきに宗教法人を立ち上げるだろう。何も考えていない人間が独裁を生む。そしていざとなったら責任転嫁するのだ。
もうこのことについて考えるのはやめよう。
僕は窓の外へ視線をやった。
赤坂駅で下車する。湘南新宿ラインに乗り換え、宇都宮まで行く。後少しで、このゴタゴタから逃れられる、僕の身体は席を確保したあと重さを増した。乱暴な眠気が僕の身体にのしかかり、身動きをとれなくさせる。身体はドロドロと溶けて席と一体化する。形は関係無かった。意識も必要無かった。耳だけがはっきり聞こえ、それは僕自身からは遠く離れたところにあった。周囲の騒音は僕の耳の中でシンプルな形に収まり、一つの音になった。全てはゼロになる。
「宇都宮、宇都宮」
眠りから覚めると、途端に強烈な空腹感に襲われた。いつから食べていなかっただろう。思えば、ファミレスに入ったりスーパーで買い物したりしたけれど、ファミレスを出てマックに行ったのが最後だ。つまり昨日の朝だ。自覚すると余計に腹を絞るような感覚が強まった。腹が減ると腹が空っぽになるというのは間違いだ。腹は萎むのである。夕暮れの朝顔みたいにギューっと萎むのだ。座っているのに座っている感覚が無い。冷汗が出始め、視界が明るくなったり暗くなったりする。僕は立ち上がった、足下の感覚がなく、膝が折れたのにも気がつかなかった。座席の間に倒れそうになる。椅子の頭を摑んでいなければそのまま額から床にくずおれていたことだろう。目をこらし、足の裏の感覚を頼りに平衡を保つ。全身が震えており、電車から出て二、三歩よろめくように歩き、ベンチの座面に手を当てた。幸いなことに隣には売店があった。僕はなんとか震える手と曇る視界で支払い、弁当を受け取ると先程のベンチに座った。ろくに寝ていないから、そのまま弁当を食べずに寝てしまいそうだった。早くレイコさんにネックレスを返して心の重荷を下ろしたい。その一心で僕は弁当の紐を解いた。ここから最寄り駅まで電車で、そこからはタクシーで須玖工房へ向かうつもりだ。今しか食べられない。蓋を開けると煮物の香りがたった。好きな南瓜の天ぷらも入っている。僕はゆっくりと箸で人参を挟み、口元へ持っていった。味の刺激に舌がビリビリする。しかし飲み下すと知らずに目頭が熱くなり、涙が零れた。物を食べて泣くのは初めてのことだった。
僕らが何かを変えようと思う時、必ず小さな些細なことから変化していくものだ。須玖工房もそうだった。ただし、僕が変えたのではなく、彼ら自身が、滞っていた流れを変化へと変えたのだ。
須玖宏陽は注文を受けていたペンダントを予定通りに完成させた。時間もほぼ、予想した通りで日暮れ前に済ませることが出来た。よって、そこへ一人の男が現れたとしても何らの迷惑を被るわけでは無かった。
「失礼します。」
「はい。」
須玖は掠れた声で返事した。
「何のご用でしょうか?」
「ここで、どのような銀細工のネックレスを作ってこられたのか見てみたいのですが、よろしいでしょうか?」
地道に、約束を守って仕事をこなしていたからか、人伝にここのことを聞いて、注文する客が増えた。多くは電話による注文である。評判を聞いてわざわざ工房までやってくる客は何の為に来るかというと、自分の目で職人の力量を見定めるために来るのだ。そして大抵、これまで作られた商品を見て、技術の程を評価するのである。作業を見て購入を決める客は少ない。であるから、須玖は商品を仕上げると、それを角度を変えて数枚、写真にとって保管している。そのアルバムを見せることによって、注文するかどうか決めてもらうようにしている。
「まず、そこの棚に置いてある物と、」
須玖は指し示しながら会計台の下からアルバムを取り出した。
「此方がこれまでの商品でございます。」
その若い男はアルバムを受け取り、広げ、顔を上げた。
「他にもありますか?これまでの全ての商品を見たいのですが。」
須玖は感心しながら頷いた。徹底して見るつもりらしい。記録しがいがあるというものだ。
「はい。此方の二冊がそうです。一番新しい記録が、今お持ちのアルバムです。」
「暫く、お借りします。この椅子と机は使ってもいいですか?」
「どうぞ。」
その男は真剣な目付きでページを捲っていった。日が落ちて須玖が灯りを側に持って行っても、蚊がその視線の先を飛んでいっても男は全くの無関心を貫き、ただページを捲り続けた。そして二冊目が終わろうとした時、あった、と呟いた。
「すみません、この商品なんですけれど、」
「少々、お待ちを。はい、何でしょうか。」
老眼鏡をかけ男の示す写真を見る。それは作曲家と名乗る男が娘のために作ってほしいという依頼で、作られたものだった。
「これは、世界に二つとは無いんですよね。」
「はい、オーダーメイドですから。」
「このネックレスの持ち主である女性が、これを紛失してしまい、今は貴方のお嬢さんが持っているようなのです。本人は大切な贈り物だと言っています。お父様から、持ち主の元に戻すよう言っていただけませんか?」
須玖はそこで、実に長い間娘のことを忘れていたことに気が付いた。娘の付き合い始めた男性が荒唐無稽なことを言い出し、取り巻きが彼を宗祖として持ち上げようとしていた。須玖は娘に、その男とは縁を切るように言った。だが娘は、悪い人じゃないのよ、といって聞こうともしない。丁度ある宗教団体がテロを起こしたばかりだった。親子の縁を切るぞ、と須玖は脅した。娘はそれでも意志を曲げず、翌朝家を出て行った。縁を切ると言った以上、それ以降連絡をとっていない。仕事に打ち込んで、はなから娘はいなかったものとした。そう、ずっと、意地も我慢も無い年月が経っている。須玖は自らの老いを自覚していたが、ここにきて、死ぬ前に娘との仲を取り戻したくなった。
「分かりました。娘に連絡をとってみます。お待ち下さい。」
「娘さんを此処に呼ぶことは出来ますか?」
「聞いてみます。それまでの間、座敷でお待ちいただけますか?」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます。」
須玖は固定電話のダイヤルを回した。一つ一つ、娘の幼かった頃を思い浮かべながら。
「はい、日向小夜子です。」
「もしもし。お前の、父だが。」
受話器の向こうが静かになった。そして、お父さん?と囁いた。
「何の用?何かあったの?」
「お前の、その、ペンダントについて、ききたいことがあるんだが。お前、茶色の紐の、亀の銀細工のペンダントを持ってないかい。」
「どうして分かったの?」
「それについて話したい。此方へ来てほしい。」
「……分かった。今から来いってことよね。急いで準備するけど三時間はかかるわよ。」
「気を付けてな。」
「はい。また後で。」
日向小夜子は目を閉じて不安を抑えようとした。隣の部屋には夫がいる。このラリエットを彼女に贈ったのはこの夫だった。初めから何か嫌な予感がしていた。何故なら、余りにも似過ぎていたからだ。どこの店で買ったのか聞いても、「会員から是非君にと贈られたものだよ」との返答で、どこか得体の知れない不気味さがあった。故郷に帰ればその正体不明な不気味さの訳が分かるかもしれない。久しぶりに父に会うことになるのが怖くもあったが、先程の電話越しの声質からは怒りは感じられなかった。むしろ老いて弱った印象だった。掠れ、弱々しく、此方の出方を窺うような…昔はあんなに怒声を張り上げていたのに。小夜子は荷物をまとめた。
「貴方、私これから出掛けるわ。帰りは明日になると思う。」
「分かった。いってらっしゃい。」
夫はパソコンで幹事と会合をしている最中だったが、休憩の時間を見計らい、パソコンからは離れたところで出掛けることを伝えた。思った通り彼は彼女が出掛けるのには無関心だった。この人は忙しいから、と彼女は胸の中で自分に言い聞かせた。玄関の扉を開く。東京の空は、星のかわりに電灯が光る。実家の空は、今にも降ってきそうなほど近くに星空が見える。父と喧嘩して彼についてきた時期が一番幸せだったわ、と小夜子は電灯の光を握った。