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「我々のいる世界は、全ての物が移ろいやがて消えゆくものです。草木も、金も、この机も、形が崩れる時が必ずくるのです。そして、この身体もそうです。死んでしまえばこの身体は、この国の場合には、最後に火に焼かれ灰となるのです。魂もそうです。貴方方の魂は死ぬと同時に無に帰ります。しかし、私の魂は別です。私は不滅の魂を獲ました。そのお告げを聞いたのです。私にとっては、世界の全てが無に帰る中で、この体験を伝えることが生きる使命なのです。貴方方も同じ魂を獲られるよう導くことが私の役目です。貴方方は、私と同じ魂を得ることが使命です。それでは、話を始めましょう。私がお告げを聞いたのはインドでマラリアに罹っていた時でした。透き通る声で『貴方は世界を導く使徒です』という声が聞こえ、私は直感的にどんなまじないを唱えるべきか分かり、それを口にしたのです。するとたちまちの内に苦しみが除かれ熱が引き、絶望に満ちていた心が洗われたのです。まじないはどんなものだったか今は思い出せないのですが、お告げを聞いた時にはきっと貴方方にも分かることでしょう。私は死の淵から生き返りました、そしてこれを日本にいる皆さんに伝えなければならないと、それが私の使命だと直感したのです。何をすべきかはお告げの導きによって明らかでした。貴方方にはお告げの声が聞こえないでしょうが、私は今、お告げの通りに話しているのです。仮にお告げの主を神仏とするならば、いわば私は神仏の言葉を預かっているのです。貴方方の魂の救済のためにこの世に現れたのです。この世のものは全てが移ろいやがて無に帰するものです。地球もそうです。私達には大きすぎて分かりませんが、地球も常にとどまることなく変化しているのです。

宇宙の渚という言葉を皆さんは知っているでしょうか。高度十数キロから数百キロの、地球でも宇宙でもない世界のことを指して言います。そこでは様々な物質が緩やかにやりとりされています。宙だけではありません、地下でも地球はプレートを作っては溶かし、陸地はゆっくりとその形を変え、常に変化し続けています。私達の身体もそうです。肺では空気のやり取りが行われ、消化管でも必要な物は中へ取り込み、不必要な物は外へ排泄することによって、日々新しい細胞が生まれ、古い細胞は崩れていく。私達の身体も変化し続けているのです。今という一瞬が層のように積み重なり、変化を生んでいるのです。明日という言葉がありますね?明日という日は永遠に来ません。来るのは今日だけです。今日の連続で明日、明後日があるのです。そのように、未来も今の連続で成り立っています。そして必ず来る未来とは死です。私達は無に向かって変化し続けています。それが老いるということです。そのうちに『今』のままで貴方方は死に飛び込みます。どんな身体でも無に帰らなければならないのです。無から逃れられるのはこの魂だけです。身体のことは忘れて魂の修練をしなさい。不滅の魂を得ることは、不死と同義です。お告げの言葉に従えば、貴方方も不滅の魂を得ることが出来るのです。

では魂の修練とはどのようなことでしょうか。それは、お告げを聞き、その通りに行動することです。お告げはこのように言っています。善い行いをしなさいと。皆さん、善い行いをするのです。私達は毎日生き物を殺して生きています。無農薬の菜食主義であっても、体内の免疫系が必ず何らかの生き物を殺しています。この身体はそれらの生き物を糧にして出来ているのです。この身体は悪業に満ちています。ですから無に帰り、この世界が悪に満ちることのないようになっているのです。食べなければ生きていけませんから、身体が無に帰ることは避けられません。しかし魂は、生まれたての頃は無垢です。それが段々と心で悪いことを考える内に汚れていってしまうのです。無に帰らないようにするには心を、魂を、浄化しなければなりません。悪いことを考えてはなりません。自己を反省し、心を研ぎ澄ますのです。そうすればきっと貴方にもお告げが聞こえることでしょう。人に親切にし、物に執着するようなことがあってはなりません。それは醜いことです。人に譲る気持ちを忘れてはなりません。また陰口を言ってはなりません。たとえ向こうが此方を悪く言っていたとしても、それは向こうの魂が穢れるだけのことです。一緒になって穢れるようなことがあってはなりません。むしろ、その人の魂を救うべく、本来我々は何を使命としているのかに目覚めさせることです。人にこの話を聞かせ行いを正させることは一番大きな善業です。深い慈悲の心で接しましょう。

それから、この御題目を唱えることです。これは私が唱えたまじないの初めの一節です。私はこれをお告げの題目としました。全てを思い出すことは出来ませんでしたが、一部だけでも貴方の身体と魂の浄化に役立つことでしょう。これを一日に何回も唱えるのです。唱えれば唱えるほど望みが叶います。」

1人の老人が手を挙げた。

「日向様、その御題目を唱えていたら、お年玉葉書の籤に当たることが出来ました。ありがとうございました。」

また別の老人が言った。

「私は、その御題目を唱えていると持病のリウマチの痛みが少し弱まる気がします。ありがとうございます。」

次は年若い青年が手を挙げた。

「その御題目を唱えるようになってから、二浪しましたが医学部に合格しました。ありがとうございました。」

私は話を半分聞いた辺りから考え事に囚われて話を聞いていなかった。宇宙の渚、どこかで聞いたような言葉だと引っかかっていた。そうだ、あの中年の女性が言っていたままではないか。忌々しい、ざわりと心が騒いだ。あんなやり方で騙すだなどと、人を馬鹿にしている。日向小夜子という女性は、やんごとなき身分の方で、直接話しかけるのは憚られるような立場らしい。目の前にあるにも関わらず、亀のネックレスを取り戻す上では厄介だ。

「いやあ、凄い話を聞かせてもらったよ。あの日向さんというのはどんな方なんだ?」

「なんでも、東京大学を卒業した後、インドへ行って、そこでマラリアに感染なされた際に夢を見たらしい。それは、世界の預言者となるよう運命づけられているという内容で、先程お話しされた通りなんだが、それ以来、言葉がまるで自分の口を借りて誰かに話させられているような感覚を得たらしい。」

「そうか、奥様は?」

これが一番聞きたいことであった。

「大学時代からの婚約者で、日向様の良き付き人だよ。」

「そうなんだ、尊い方だね、何処に住んでるんだろう?」

「日向様と同じだよ。何処にお住まいかは分からない。カルト扱いされ、嫌がらせされたことがあるそうで、今は非公式になってるんだ。」

「実家は?」

「栃木県だと以前お聞きしたことがある。工匠の須玖宏陽の娘さんらしい。須玖工房は昔からの職人技が魅力的で、銀細工の老舗と言われてるんだと。」

「へぇ、そうなんだ。」

まず、頭の中を整理しよう。

僕の家にレイコさんが来たことを北総さんが誰かに伝える。そして、どれ位の口を通じて伝わったか分からないが、それがこの教団の団員の耳に入る。会長またはその妻がレイコさんのネックレスを求める。僕の家の近所に住んでいる団員が僕等を監視する。そしてレイコさんが帰宅する折に、ネックレスを忘れて行ったことに僕やレイコさんよりも早く気付く。「ネックレスを返してください。」と言ったあの中年女性もこの教団の団員だろう。監視する係も彼女がしていたのかもしれない。僕が休暇をとって実家に帰ること、両親も家も既に無くしていることを団員の誰かが知っており、山内が探りを入れる。僕が自分の家以外に行きそうな場所として一番可能性が高いのは中田の家だということを知る。それを団員が、恐らくは山内が中年女性に伝える。中年女性は僕を追いかけて、中田の家に来る。混乱がピークの僕からネックレスを受け取る。それを日向「様」か奥様に渡す。そして今、僕は亀のネックレスを追いかけて東京までやってきた。

山内はどうして純粋に僕が教えを請うて来たと信じられるのだろう。冷静に考えれば僕がネックレスを取り返すつもりで来たことは明々白々で、それを妨害しようとする筈である。柿谷幹事もそうだ。幹事というからにはこの一件には関わった筈だ。なぜ僕の来た本心を探ろうとしない?

それはきっと、彼等にとってはすべて、「終わったこと」だからだ。ネックレスを「奪った」のではなく「取り返した」という認識だからこそ、あるべき場所に帰った、と完結してしまったのだ。「ネックレスはここからどこへもいかない」と信じ込んでいるからだ。

また、責任が分散してしまっていることも理由に挙げられる。僕のプライベートな情報を余りに多くの人間で扱ったために、一人一人が、このネックレスの件に関わったという意識が低くなる。意識が低くなると責任感も薄れる。それで皆、ニコニコと僕を歓迎できるのだ。

僕はその場を後にした。一緒に御題目を唱えようと言う山内を振り払うようにして出てきた。疲れが蓄積して足が重たい。きっと靴底が熱さで溶けてアスファルトにへばりついているのだ。靴底に穴が開いて、足の裏が焼けるようなアスファルトに触れ、溶かされる。骨まで溶かされ、ふくらはぎ、膝、太腿と地面が近付いてきて遂には両手をばたつかせながら、底なし沼に飲み込まれるようにして僕は陽の当たらない地下へと沈む。その方が涼しくて良い。

僕が同じ部屋にいながら手ブラで退却したのは、日向小夜子からネックレスを取り戻すには不適切なルートだったからだ。もし無理矢理でなく話し合いによってネックレスを取り返すにしても、空気がそれを許さないのだ。彼と彼女は絶対的に正しく、彼女が許したとしても集団は間違いを認めない。集団の中の暗黙の了解を破った者は排他されるだけだ。僕は栃木へ行くことにした。これこそが適切なルートだと確信していた。

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