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例えばこれが君だったなら正しい判断を下せたと、自信をもって言えただろうか?

彼女は昨日と今日、多忙の暇をぬってわざわざ僕の部屋に訪ねてきたらしい。勿論あの、亀のネックレスを回収するためにだ。

「私のラリエットを他人に渡した?」

理不尽な状況に対するベストの選択、その理不尽を第三者に分かるように説明すること。しかし言葉は喉で痞えてしまった。分かりやすい話とは何だろう。僕は情報を絞りながら、次のようなことを話した。

まず、怪しい中年女性が「ネックレスを返してほしい」と要求してきたこと。その後千葉の実家に行ったら両親が急死し家が跡形もなくなっていたこと、友人の家で泊まることになったこと、と思ったら再び中年の女性が現れたこと、その後ファミレスで話す内に段々と彼女の言うことが正しいように思えてきたこと、その結果ネックレスを渡してしまったということを説明した。実に間抜けというか、非常識というか、自分でもどうして騙されたのか分からないほど荒唐無稽だった。

彼女は横を向いて軽く下唇を噛んでいた。

「あれは、父からの唯一の贈り物なのよ。」

僕は言葉なくうな垂れた。

「謎だらけね。まず何故、その女性は完全に貴方の行動を予測出来たのかしら。」

「それは…」

そういえば何故だろう。彼女が家に来たこと、実家へ戻ること、実家が無くて一番近い、知人の家に泊めてもらうこと、どうしてこれらを予測出来たのか。

まず、レイコさんが此処に来たということは北総さんが知っている。休暇に実家へ戻ることは同僚なら誰でも知っている。知人の家に泊まることは…

「ちょっと、同級生に連絡をとってもいい?」

「どうぞ。」

携帯からプルルルル、と何度も呼び出し音が鳴る。五回目で彼は出た。

「もしもし、中田です。」


「もしもし、中田です。」

「中田、元気か?山内だけれども。」

何があったのだろうか、そんな不安よりも嬉しさで一杯になった。中田が会社を辞めた原因は大うつ病を発症したことによる。発症した原因は様々だ。終わりの見えない残業、完璧主義、仕事をこなせばこなすほど高まる信頼と評価、責任、それらの重圧に耐えきれるほど中田は、ストレスを昇華させることに長けていなかった。発作的に切りつけた腕の傷を見て、彼自身以上に驚いた者はいないだろう。誰がやったのかと問いたいが、記憶は明瞭に残っていた。仮に人間の身体にストレス袋という内臓があったならば、解毒さるべきストレスが、彼の場合解毒されずに袋の中に留まり続け、とうとう風船に針を刺したように破裂してしまった。身体中に毒が回り、自分の意志がなくなる。「切らなければならない」毒に汚染された頭はそう命令した。「今すぐ死ななければならない」恐慌の中で彼はその声に従った。カッターからギチギチッと刃を出し、手首に押し当てる。最初はゆっくりと線を引き、切り口からツプツプと血が滲む。「それだけでは贖いにならない」声はまたしても聞こえた。彼はさらに深くカッターの刃を食いこませ、一気に引いた。血が溢れてきた。「もっと深く」しかし傷口がどこにあるのか、たちまち見えなくなった。痛みを感じない非自然的な思考網は命令に従えなかったことで混乱に陥り、ところ構わずカッターで腕を切り続けた。我に帰った時は病室だった。母親が彼の名前を呼んだ。父が医者を呼びに行くのが見えた。

「今、何時?」

「10:47よ。」

出勤時間を大幅に過ぎている。一刻も早く会社に行かなければならない。起き上がろうとした身体を管が邪魔をした。ので、抜こうとする。

「抜いちゃダメよ!」

彼は力を抜いてどうとベッドに倒れ込んだ。最早どんな言葉にでも従うほど消耗していたのだ。会社から解雇の知らせが伝えられても彼は抗わなかった。全てを注ぎ込み抜け殻になった彼は考える。所詮自分は消耗品だったということをだ。彼は企画という蝶が羽化した後の蛹室であり、もう役目を終え朽ちるだけの存在だった。

「生活する方法なんてなんぼでもあるからな。」

両親の畑仕事を手伝うことは、自己効力感を上げる上で有効だったし、彼にあの多忙な緊張に満ちた日々を忘れさせた。彼は少しずつ認知の歪みを正していき、枯渇していた生命力を取り戻していった。そんな折である。同級生の山内から電話があったのは。

「実はさ、スゲー人がいて、お前にその人を紹介したいんだけど、今何処にいる?」

「実家だよ。」

「そうか、それだと少し遠いな…でも東京なんだ。来れないか?」

回復してきたとはいえ、今この土地を離れるとまたあの恐慌がぶり返す気がした。

「悪い。行けないよ。」

「そうか…残念だ。また誘うよ。ところでお前の家の周辺、何人か戻ってるか?」

「いや、ここに帰ってるのは俺だけだ。」

「そっか。わかった。じゃあまたな、元気でな。」

「電話をくれてありがとう。またな。」

まだ、自分は世界に見捨てられていない、希望とでも呼ぶべきなのだろうか。彼は喜びと安堵を噛みしめながらその味をゆっくり味わった。奥田が彼の家を訪れたのはその翌日のことである。


「中田か?ちょっと聞きたいことがあるんだが、今いいか?」

「ああ、いいよ。どうした?」

「僕がお前の家を訪ねたこと、誰かに言った?」

「いや、誰にも。」

「ああ、そりゃそうか…ちょっと待て…じゃ、ここ一週間に、同級生の誰かと連絡をとった?」

「それなら、一昨日山内と電話で話したよ。」

「どんな話をしたんだ?」

「どんなって特に…紹介したい人がいる、とか、この辺に戻ってきた同級生が俺以外にいるか、とか。」

「それだ。ありがとう。聞きたかったことがきけて良かったよ。昨日はいきなりだったのに世話になったな。ご両親にもよろしく言っといてくれ、ありがとうって。」

電話を切る。僕の頭は常識というものを取り戻し始めていた。

「山内という同級生なら、僕が何処に泊まるかを把握出来た可能性がある。」

レイコさんは首を傾げた。

「一体今、貴方は何を考えてるの?」

「あの中年女性が僕の前に繰り返し現れたタネが、分かりそうなんだ。少なくとも、彼女の元へ僕に関する情報が集積したなら可能なんだ。」

僕は久々に山内に電話することにした。ある一件でもう二度と電話に出るものかと思って、出ないために残しておいた連絡先だった。

「もしもし、山内か?奥田なんだけど、覚えてるか?」

「覚えてるよ、無論。久しぶり。」

「久しぶり。お前さ、前にスゲー人を紹介したいって言ってただろ?そのこと、もう少し詳しく聞きたい。」

「いいよ。じゃあ時間とって東京に来いよ。その方がベターだ。」

「分かった。これから向かう。どこに行けばいい?」

「そうだな、これからこっちに来るなら丁度良い時間だ。住所は…」

言われた住所をメモしている間、彼女は息を潜めていた。そして、僕はふと、彼女は何もかもを承知で僕を導いている気がした。亀のネックレスを取り戻すための正確な方角を彼女が示している、そんな気がした。

「じゃ、待ってるよ。」

電話越しの山内の声で現実に引き戻される。

「あ、ああ…」

通話が切れる。直ぐにでも行動しなければならない。

「レイコさん、僕はこれから東京に行ってきて、調べたいことがある。亀のネックレスに関することなんだ。」

「東京?徹夜して行くの?」

「そうだよ。」

彼女は目を瞬いた。そして、口元が僅かに何か言いたげに開き、出かけた言葉を飲み込んで、気を付けて、とだけ紡いだ。僕は千葉に行くための用意のままで東京に向かうことにした。

京都駅から出る夜行バスに乗って、今度は東京駅まで行く。実家に帰るよりは短いルートだ。しかし消耗は東京の方が圧倒的に大きかった。どうにかならないのだろうか、あの、渋滞。人の津波。山奥育ちの僕には、僕を阻むために日本の総人口が結集したのだろうかと思われるほどだった。やっとやっとで山内から聞いた住所までたどり着いた。そこは市民ホールをビルにしたような建物だった。部屋番号は会議室として貸し出されており、どんな団体でも電話一本入れれば利用できるようになっていた。スペースは20人程で会議が出来そうな広さだった。従って山内が扉を開けた僕に気付くのに造作はなかった。

「やあ、はるばるだね。いらっしゃい。」

「紹介したい人って?」

「えーと、まず紹介するにも順序があるからさ、ちょっと失礼…。柿谷さん!友人が到着しました。奥田といいます。」

「はじめまして。奥田勝です。」

「奥田、此方が柿谷幹事だ。関東を中心に支部があって、他は、そう、奥田の住んでる京都にもあるんだけれど、それら全ての支部を取りまとめてる。簡単に言えば総責任者だよ。」

「こんにちは。柿谷です。京都にお住まいなんですか?」

「はい。」

「私も普段は京都で生活してるんですよ。会合の時は此方に来るんですけどね。京都からここまで来るのは体力的に辛かったでしょう。」

「はい。本当に。」

「そうでしょう。そろそろ、時間ですね。座って待っていてください。」

部屋には僕らの他にも十数人ほどいた。先程20人位で会議出来そうな広さと書いたが、それをやや窮屈に思わせる程の人数がいた。出入りが激しく、正確に数えられなかった。

「これからいらっしゃるのが、本当に紹介したかった人なんだ。お名前は、日向公房さん、奥様は小夜子さんと仰る。後は何がどうスゴいのか、聞いてくれれば分かると思う。」

山内は高揚を抑えられない様子でそう言った。室内はまだざわめいていた。しかし、徐々に席に座る人が多くなり、やがて水をうったように室内が静まりかえると、その2人が室内に入ってきた。僕はその女性の首元に視線を置いた。まさかとは思っていたその予想が当たった。彼女の首には、探していた亀のネックレスが、陽光を反射して光っていた。

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