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僕の故郷まで追いかけてくるだなんて、どうしたら予測できるだろう?しかし彼女はまるで僕のいる場所には必ずいると言わんばかりに当然のように立っていた。

「ネックレスを、」

「ちょっと待ってください。ここは僕の家じゃないんです。この家の方に迷惑をかけたくない。ですから、僕荷物をまとめてきて、此処の人達にお礼を言ってから貴方と話し合います。何処かの店で。ですから、五分ほど待っていてください。」

荷物はまとめなければならないほど散らかってはいなかった。風呂に入った時に脱いだ服を入れるだけで良かった。中田と中田の両親は不可解そうに此方を見ていた。こんな遅い時間に突然の客人が2人も現れては誰でも混乱するに違いない。

「ありがとうございました。」

「いや、何も…もてなすことが出来なくてすまない。」

「いきなりだったのに色々とお世話になりました。」

「また来てくれ。」

「じゃあな、中田。ご両親もお元気で。」

そうして僕は中年女性と共に外に出た。僕のレンタカーの後ろに白いミニバンが駐車されていた。

「これから、サイゼリヤに行って話をしましょう。」

女性は頷いた。そしてそれぞれの車に乗り込むと、秋を感じさせる涼やかな風がわずかに開いた窓から忍び込んだ。

サイゼリヤは人が疎らに座っていた。夜遅くなのだから何人か座っているということが驚きだった。バイトのウェイトレスが奥から出てきて「二名様ですか」と聞いてきた。僕は指を二本立てて頷き、無言のまま席まで案内された。席に着くと暫らくの沈黙が下りた。ほぼ初対面の女性と話すのだから当たり前だった。僕らの共通の話題は一つしかない。亀のネックレスだ。その沈黙を破って彼女は口火をきった。

「あのネックレスにどんな価値があるのか、貴方は分かっていません。ですから、貴方に所有する権利はありません。」

「いや、僕が所有しているんじゃない。知人の所有物だから、その人に無断で貴方に渡すことは出来ないと言うのです。」

「元の持ち主に帰すべきです。」

「その点について否定はしない。けれど、貴方は何者ですか。元の持ち主とどんな関係があるのですか。」

彼女はクルリと店内の客の様子を窺った。そしてこう言った。話せば長くなるんですが、と前置きをした上で、

「私は栗源レイコです。」

僕は一刻も早く逃げ帰りたい焦燥に駆られた。これは確実に面倒なことに巻き込まれている。そんな僕の混乱も気に留めず彼女はポツポツと話し始めた。

「あのネックレスには不思議な力があります。その所有者の周辺の時間を、止めることが出来るのです。私は栗源レイコ、今までそのラリエットと共に生き、多くの老いと死をみてきました。いわば時空を放浪しています。父もこの事は知っていますが、作曲以外には興味を持たない人です。出会ったその時代に順応して生きてきました。もう何十年経ったか分かりません。しかし、そのラリエットを無くしてから、探すのに随分手間取りました。いつの間にか徐々に老いが身体を侵食し、気付いた時にはこんなに年をとってしまっていました。お願いします、そのラリエットを返してください。」

「時間を止める?そんなことありえやしない。」

「貴方が考えるよりも時間は相対的なのよ。」

僕は両親の死と友人の老け込んだ顔を思い出した。

普通に、または一般的に考えれば彼女の話の内容はSFじみていて信用どころじゃない。妄想に近い。それでも僕は何故かその言葉や態度に圧倒され始めていた。彼女の確信が、僕の、所謂「常識」を塗り替えていった。刷毛で僕がこれまで壁に描いてきた絵を真っ白にしていった。女は、これ以上の説明は無いと言わんばかりに黙りこくってそっと首筋に沿って鎖骨へと指を下ろした。それはレイコさんの癖だった。

「でも貴方の言う事には根拠が無い。貴方が栗源レイコだという証拠も無い。」

「確かに無いわね。」

僕はここで嘘をついたのだが、彼女の反応から、あまりレイコ本人であるという証拠を出したがっていないことが分かった。

「じゃあ、渡すわけにはいかない。僕は絶対に本物のレイコさんにこの首飾りを返す。それまでは誰にも渡さない。」

「宇宙の渚って知ってる?」

「知らない。」

「宇宙と地球とは、互いに隔絶しているものだと思うでしょう?でも、実際には高度十数キロから数百キロの世界では多くの交換が行われている。その世界は宇宙の渚と呼ばれているのよ。じゃあ、時間だって過去と未来は隔絶されたものではなく今という汀があるだけなのだと考えることも出来るわ。時間は重力によって捻じ曲げられる。光の速度を一定と仮定するならね。貴方が思っているほど、時間は同じ早さで進むものではないのよ。」

「それとこれとは関係が無い。」

「いいえ、そのラリエットについて理解してもらうために必要だわ。貴方が持っていて良い物ではないの。返して。」

ネックレスの周囲だけ時間が止まるなんて嘘だ。という自分の発言に、僕は自信を持てなくなった。彼女はアインシュタインの一般相対性理論の話をしているのだとなんとなく分かった。この女性はただの中年ではなく、僕の想像以上に利口なのかもしれない。「利口」で僕はレイコさんを思い出した。彼女は意志が強く、実行力もある利発な人だった。あのレイコさんと目の前にいる女性との間に共通点があるように見えてきた。さっきの癖だって、レイコさんそっくりだったじゃないか。あの美しい女性が、どこにでもいそうな中年の女性になってしまったことは意外だが、そもそも年齢を重ねるということはそういう事ではないのか。僕は暫く黙った。その間も彼女は待っていた。そして僕はとうとう、ネックレスを鞄から出した。しかし彼女には見えない、机の下でだ。

「ネックレスの特徴を言ってください。」

「特徴といっても…茶色の紐に、亀が一匹…やや、甲羅が大きいわね。頭が上で、尾が下、海亀ね。」

僕は迷っていた。確かにこれは特徴の無いネックレスだ。彼女は最初からラリエットだということまで知っていたことから、無駄な質問だということは分かっていた。けれど僕は一連の不可解な出来事に一刻も早く終止符を打ちたかったのだ。この質問は、僕の言い逃れの為だった。ここまで詳しく調べられていたら騙されても当然だろう。そう言い訳するために敷かれた伏線だった。

僕は最後にもう一言、要求した。

「免許証を見せてください。」

彼女の取り出した免許証には、目の前の顔と同じ顔が写真にされ、横に栗源レイコと書かれていた。決定的だ。持っていたネックレスをテーブルの上に出す。海亀が揺れている。女性はそれを手皿に置くと丁寧な手つきで鞄にしまった。

「それでは、失礼します。」

彼女はそそくさと立ち去った。あんなにも手放すのを恐れていたにも関わらず、手渡す時には何も感じなかった。一人、席で彼女の影形も見えなくなるまで座っていた。向かいの席にまだ彼女の気配が残っている。もう一度唐突に実体化して「ネックレスを返してください。」と言い出しそうなほど濃密な空気だった。しかしそれも時間が経つにつれて薄れていき、ただの空席になっていった。彼女はたまたまそこに座っただけだ。それ以上も、それ以下の価値も無い。僕は日常を取り戻したのだ、そう、夜明けになれば世界はリセットされて、また新たな一日が始まる。そんな考えが嘘だということはすぐに分かった。時間にリセットは無い。毎日同じことの繰り返し。だが僕はここ数日の出来事から解放されたのだという感覚を味わいたかった。大きく息を吸い、席を立つ。立ちくらみがした。車の中で少し寝る必要がある。彼女と話すことがここまで疲れることとは思わなかった。そして時間を止めるというネックレスのことを想った。馬鹿馬鹿しい。でももう渡してしまった。なるようになればいいさ。

倒れこむように駐車場に停めてあった車の中で寝た後、目を覚ますと8時だった。今から千葉駅へ行ってレンタカーを返したら、バスのチケットを買ってバスの予定発車時刻まで朝ご飯を食べていよう。朝ご飯、と聞いて萎んだお腹が切なげに鳴いた。

朝ご飯はチキンクリスプマフィンとアイスコーヒー、それからアップルパイだった。バスの中で老人と海を読んだ。今はもう海と聞いても頭を重くすることはなかった。長距離バスの中では熟眠感は得られにくいのだが、これまでの疲れと睡眠不足があいまってかよく眠れたので、最後まで読みきることは出来なかった。僕は夢の中で大カジキと闘っている。カジキは水飛沫をあげて跳ね上がり、その時僕が闘っていたのはカジキではなく巨大な海亀だということに気付いたところで夢は終わった。見覚えのある街並みから終着が近いことが分かる。結局、千葉の実家での休暇は果たせなかった。しかし一つの大きな重荷を下ろすことができたのだ。亀のネックレス、栗源レイコ、もうあれらには関わりたくない。

京都駅で冷房のきいた市営バスに乗りかえる。家に帰ったら冷房をつけよう。そして全てを忘れて読書に没頭する。早めに仕事に戻ってもいいかもしれない。あんなに嫌だった日常の一つ一つの造作が愛おしかった。猛暑の太陽の下、自分で自分を励ましながら帰路につく。今日は食事も自分で作ろう、そう考えて家に帰る前にスーパーに寄った。パスタとバジルソースを買う。トマトとモッツァレラチーズも買った。今日はイタリアンだ。

胸をときめかせて部屋に向かうと、部屋の前に栗源レイコが立っていた。若々しい肌、最初に会った時と同じサングラス、服は前回と違ったし、中年の女性の服装でもなかった。空色のワンピースにポンチョを重ねている。束ねた黒髪が瑞々しく艶があった。握力を失い、買った物が廊下に落ちる音を聞いた。そうして彼女は凭れかかっていた壁から背中を剥がし、腕は組んだままでこう問うた。

「一体、何処へ行っていたのよ?」

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