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「今、なんて?」

「ネックレスを返してもらいたいの。」

その女性は繰り返した。でも僕は彼女を知らない。彼女はどこにでもいそうな、半袖の下に地味なスカートをはいていた。その肌は若々しいとは言い難い。

「貴方のネックレスがどこにあるか、僕には分かりません。」

「亀の飾りが付いたラリエットよ。」

ラリエットが何かは分からないが、亀の飾り…ラックの上に置き忘れられた、レイコさんのネックレスには、亀の飾りがあった。

「知りません。」

「いえ、貴方は嘘をついたわね?心当たりがあるんでしょう?」

「あれは知人が置き忘れたもので、」

口を滑らしてしまったが、最後まで言うしかない。

「貴方のものではありません。貴方はわたしの部屋に入ったことが無いでしょう?」

「あるんじゃない。では、返してください。」

「断ります。」

そう言って僕はドアを閉め、ロックした。妙な問答だった。僕の頭はシンプルな解答を求めていた。やがて僕はレイコさんのネックレスを鞄の中に入れ、出掛ける準備を整えた。先程の中年の女性がドアの外で待ち伏せていないかと覗き穴から見たが、そこには誰もいなかった。ガス良し。戸締り良し。万全だ。

漸く実家に戻ることができる。

京都駅から千葉駅までのバスの中で、僕はずっと自問自答を繰り返した。

何故僕は彼女のネックレスを鞄に詰めて来たのだろう?持ち主が再び現れるまで大切に保管しておかないといけない気がしたからだ。家捜しされるとでも思っているのだろうか。しかしそんな事をやりかねないような雰囲気をあの女性はもっていた。

あの中年の女性はどうして名乗らなかったのか?普通は名乗ってから用件を伝えるものだ。分からない。

何故彼女ではなく僕の所にネックレスがあると知っていたのだろう?分からない。

このネックレスに何故こだわる?分からない。

このように、僕の頭の中はクエスチョンマークで埋め尽くされることになった。そしてそれは羊を一匹、羊を二匹、数えていくのと同じ効果を生んだ。クエスチョンマークが一つ、クエスチョンマークが二つ、頭の回転は速度を落とし、鈍麻になっていく。思考が進まなくなり、瞼が重くなる。全身が重力に抗えなくなるのを感じながら、暗い地下のずっと奥深く、眠りに落ちていった。朝、まもなくバスは千葉駅に着こうとしていた。鞄の中のネックレスを想う。ぼんやりと、なるようにしかならない、と声がした。

千葉駅からはレンタカーに乗って実家まで行く。黒の軽自動車で市街を抜ける。海沿いの道をひたすら走っていくと人が少なくなり、カーブが多くなっていった。フェリーの明かりに気付く頃、辺りは夕闇に包まれていた。科学的には朝焼けと夕焼けには違いは無いと、何かの本で読んだ気がする。しかし朝焼けは出会いの、夕焼けは別れの象徴だと僕は考えている。それは安直に、太陽との、から連想したことであるのだが。僕は海を見て、またしてもあの暗澹たる自問自答に悩むことになった。運転に集中している間には忘れていたのに、海から海亀を連想したのがいけなかった。亀のネックレス、謎の中年女性。近頃の僕は、平凡とは言い難い体験を何度もしている。AV女優を部屋に上げたり、あろうことかキスしたり。これはいけない兆候だった。何にいけないって、精神衛生上よろしくない。心臓がカウボーイの投げるロープのように振り回され、投げられ、ギュッと締まる。何が起こったのか分からずに耳鳴りがする。トンネルの中を凄いスピードで走り抜けているような音の耳鳴りだ。凄いスピードで、血液が血管を通って脳に向かう音だ。汀を歩くように僕の思考は覚束ない。振り返ると足跡が消されている。一体何を考えていたのか、どこから歩いてきたのか、波に消されてしまう。それだけ混乱が大きい。それでも僕は狼狽せずに静かだ。思考を、歩みを停止してしまっているからだ。なるようになってしまえ。そんな投げやりな気持ちが、僕の精神の均衡を保っていた。

帰ってみたら家が無かった。これさえ無ければ、僕は後々判断を誤ることは無かっただろう。家は更地になり、売りに出されていた。そこには僕の育った家、古い木造の湿っぽい家がそこにある筈なのに何も無かった。何が起こったのか、誰かに聞く必要がある。昔柿の木を盗み食いしているのを見つかった時、怒らずにいくつかは残しておいてね、とだけ言った優しい隣の家の奥さんに聞いてみることにした。隣の家のベルを鳴らす。すると想像していた奥さんではなく、若い婦人が扉を開けた。

「どなたですか。」

「僕は、隣の家に住んでいた奥田といいます。隣に両親が住んでいた筈ですが、どうして売地になっているのか、何かご存知ですか?」

婦人は訝しげに私を見た。そして、隣は、と言った後思い出したように、お気の毒ですが、と付け加えて言った。

「車の事故で亡くなられたと聞いています。信仰上、葬儀は行わず、火葬だけしたそうで。お骨は、よく知りませんが、納骨堂に納められたとか。これ以上はよく分かりません。」

彼女の視線は何度か背後に向かった。そして、ピー、とお湯の沸いた音を聴くと、焦りの色を浮かべた。不謹慎だと責めることは出来ない。

「失礼しました。有難うございます。」

僕は頭を下げた。もう何も考えられなかった。


両親が死んだ?


車の中で暫くエンジンもかけずに呆然としていた。他にも色々聞くべきことがあった。でももう、あの忙しそうな様子を見ると再度訪ねるのは失礼だろうし、僕自身も聞きたくなかった。家が無くなっていた。一人息子の僕に何故連絡が来ていない?涙はこんな時には出ない。いつまでも車の中にいるわけにもいられなかった。どこか友人の家で泊まれないだろうか。同級生の顔を思い浮かべた。学校から遠いこの地域で、よく一緒に通った奴の一人、確かアイツは地元に戻っていると成人した時の同窓会で聞いた。僕は奥田、アイツは中田、名前の由来が良く分かると笑いあったこともある。さっき通り過ぎた時に見たから、確実に家も有る。僕はそこへ向かうことにした。

ドアベルは壊れていた。何回か押したが、中からベルの音が聞こえてくることはなかった。仕方がないので昔のようにアイツの部屋に小石を投げて、名前を呼んだ。すると窓が開き、驚いた顔で「よう」。僕も「よう」と返した。昔に戻ったみたいだった。中田はすぐに戸を開けて中に入れてくれた。長年会っていなかったせいか、少しの違和感を覚えた。

「お前、くる前に連絡ぐらいしろよ。ガキのいたずらかと思ったぞ。」

「悪い。でも今、実家に帰ったら無くなってて、連絡寄越す余裕が無かった。」

「ああ、ご両親のことは気の毒にな。聞いてるよ。今日は遊びに来たと思ってゆっくりしてけ。」

「悪い。」

「悪くない。友達なんだ。風呂用意してくる。」

僕には何も残っていないと思っていた。自分がホモセクシャルであることを誰にも打ち明けられなかったことで友人と呼べる人はいないと思っていた。その分、中田の言葉は温かかった。通された居間では中田の両親がテレビを観ており、驚くと同時に懐かしがられた。思い出話をしそうな妻に、夫は、食事、とだけ呟いた。中田の母は慌てて今から用意するわ、と台所へ向かった。平穏で、安定した家庭がそこに有った。僕のように歪で、無くなってはいなかった。

家が無くなったので、避暑の計画は捨てざるを得ない。明日か、明後日かには京都に戻ろう。理不尽な状況におけるベストな選択、今あるものを最大限に活用すること。このまま温泉に行ってもいいな、と風呂上りの火照った身体が考える。15分ほどして中田も風呂から上がってきた。冷蔵庫から缶ビールを二缶取り出した。

「俺の部屋で話そう。ここだとゆっくり話せない。」

僕は頷き、彼の両親に会釈をすると二階へ上がっていった。

本当に久しぶりだな、という決まりきった文句から会話が始まった。僕の両親が死んだのは一ヶ月前、大型自動車に追突したことによるらしい。実家の固定電話しか知らず、携帯の電話番号も京都の住所も知らないため、連絡することが出来ずにいたそうだ。書類のことは村民全体で処理した。遺言書に有ったように綺麗さっぱり何もかも、遺体も含めて全てを処分した。彼はビールを飲みながら、淡々と話した。手続き上の話をしていると、親を無くしたのではなく数字が減ったのだという認識にすり替わり、僕も他人事みたいに考えることが出来た。それでもやはり、ビールに手を付ける気にはなれなかった。心の何処かに錨が下ろされて、何をするにも億劫な気分にさせた。中田が持っていた缶を床に置くと、カンと軽い音がした。もう空にしてしまったのか。それだけの時間が経ったのか、それとも中田の飲むペースが早いのか判断しかねた。

「お前の両親について、これ以上は知らない。話題を変えるか…よし、俺、仕事辞めたんだ。」

これは少し驚いたが、僕がこの一週間体験したことに比べれば、むしろ普通の世界に戻ってきたようで安心した。中田は清々しく笑い、ビールの缶を持ってその軽さに驚いた。そうなのか、と僕は相槌を打った。

「理由は色々あって、でもここに帰って来てからは、心が休まる。このまま畑引き継ぐのも良いかな、とかさ。考えてるんだ、俺。」

そして彼はまた笑った。今度は寂しげで物憂いな年寄りじみた笑みだった。玄関を開けてから抱えていた違和感はこれだったのだ。中田はその年齢以上に老けてみえた。苦労が多かったのか、頭に白髪が目立つ。

押し黙っていると玄関の戸の開く音がした。

「すみませーん。」

「はーい。」

中田の母親が小走りする音が聞こえた。僕は次の話題を考えていた。

「奥田くーん、お客さんよー。」

一瞬聞き間違いだと思った。しかし中田が呼ばれてるぞ、と言ったことで勘違いでも錯覚でもないことを知った。心臓が再び振り回され始める。耳鳴りがうるさい。嫌な予感がしていた。滑り落ちないように努めて慎重に階段を下りる。そして玄関の戸口を見た時、恐れが現実に変わった。

「ネックレスを、返してもらいに来ました。」

そこにいたのは、京都にいる筈のあの中年の女性だった。

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