3
彼女が何日滞在していたか分からない。けれど7日から10日、その辺りだろう。その間に、彼女の事が少しずつ分かってきた。
まず彼女は、地球に優しい。僕がエアコンを18℃に設定していたら、いつの間にか28℃に設定し直されていた。それから、綺麗好きだ。僕がオヤツに食べたカップヌードルが消え、洗われた状態でゴミ箱に捨てられていた。汁が飛び散って汚れたテーブルの上も、拭かれているだけでなく放ったままの雑誌を閉じて本棚に戻されていた。またいくつかは廃品回収に出されていた。これは無断だったのがいただけないが、いらない雑誌だけだったので特に問題は無かった。料理も出来るのは前述した通りだし、僕の生活は所帯じみてきた。けれど彼女は僕の妻ではない。居候だ、いや、もっと正確に言えば押しかけだった。意思貫徹する頑固さは、目からビームが出そうな鋭い眼差しから察せられた。AV女優として成功するには強い意志と交渉能力が必要よ、でないと良いように使われるだけだから。そう話すのに相応しい芯のある女性だ。彼女の、耳の裏から首筋をなぞって鎖骨まで撫でる仕草も魅力的な癖である。彼女が僕のゲイ雑誌を見つけたのはたしか5日目だった。でもその後も2人の距離は変わらなかった。何の質問もなく、淡々と互いにやりたいようにやって、僕も彼女には文句を言わなかった。僕らの生活は、たとえ同じテーブルについていても壁一枚隔てたように不干渉だった。彼女が出て行く前日までは。
その日、僕はうっかり2人の間の国境線を踏み越えてしまったのだ。彼女の空気に慣れてしまい、その質問がどのような反応を引き起こすかも考えずに口に出してしまったのだ。
「レイコさんは、どうしてAV女優になったの?」
彼女はテーブルの上にゲイ雑誌を置いて捲りながら答えた。
「給料が良くて、SEXも好きだし、カメラの前で演じるのが好きだったから。」
ページを捲る速さからいって、彼女がその雑誌に碌に興味を持っていないのは明らかだった。僕はそんな彼女に対して、何故そんな無関心なものをわざわざ見ているのだろうかと疑問に思った。けれどそれは言葉にならず吟味されることは無かった。
「仕事を休んでココに来たのはどうして?」
「貴方の名前で検索したら、facebookに貴方の住所とかが書かれていて、」
「うそ!」
「それを足がかりに調べたの。仕事をこなせるものはこなして、キャンセルするものはして、時間を作ってゆっくり休みたかったの。誰の目もなく、父の世話もしないで済むところで。父には面倒をみる人を雇ったから大丈夫よ。」
「SEXはしなくても平気なの?」
これが地雷だった。
彼女はダンッとゲイ雑誌を閉じて、目を剥いた。
「ええ、溜まってるに決まってるでしょう?男だからSEXに困らなくて済むと思ってたらホモセクシャルで相手にしてもらえないし、自信のあった自慰も思うように出来なくなってるし、全っ然ダメね。これは私の身勝手だってことは分かってるのよ、でも言わせてもらうと、正直、まだ仕事には戻りたくない、でもSEXはしたい、でも顔が知られてるから其処らの男をひっかける訳にもいかない、でかなり悶々としているの。あまり刺激しないで。」
美人が怒ると怖いというが、彼女の表情は石像が口を開けて喋っているようで確かに背中が冷えた。思わぬところに地雷があったので(地雷はいつも思いがけないところにある)動揺した。小心な僕は母親に叱られた時のように縮みあがってしまって、何とか彼女の機嫌をとりなしたかった。
「キスまでなら出来る。君に勃起はしないけれどキスなら僕だって出来る。」
言った後で失言だったと後悔した。そうして堪らなく恥ずかしくなった。何だよ、キスなら出来る、なんて。彼女は怒りの冷めた、素っ頓狂な顔をしていた。驚いたようだった。僕自身も吃驚だ。
出来るの?と彼女は訊いてきた。僕は半分意地になって出来る、と答えた。悪いことをした訳じゃない、むしろ彼女の方が身勝手なのに、僕は彼女に対して申し訳なかった。両親も、友人も、そして世間を、裏切っているような気がしていた。今までずっと、同性愛者であることに罪悪感を抱きながら生きてきたのだ。誰にも打ち明けられない、僕だけの苦痛であってほしい。
彼女が近付いてきた。僕は目を閉じて、必死に薔薇の香りのする好みの男性を思い浮かべた。その像は段々と北総さんに似ていき、やがて彼が現れた。僕らは今、ジャックとエニスのキスシーンを横に、互いに向き合い、シャツの下へ手を忍ばせて貝の内側のように滑らかな凹凸の背中に、脊椎を一つ一つ辿りながら指を這わせて、肩甲骨を何度も撫でる。僕は彼の肩へ、彼は僕の肩へ顔を乗せ、まずは彼が動く。僕はその動きを肩に感じとって、熱い息を肩から首、頬へと移しながら彼の顔を正面から見る。どちらともなく目を伏せ、きっと訊くのは彼だろう。いい?遠い時空から地球に届いた光のように運命的に、僕の鼓膜を震わせ、骨が振動し内耳に反響しながら伝わる。
「いいよ。」
一呼吸おいて、柔らかに唇が重なる。最初は鳥が雛にエサをやる時のように素早く、軽く、何度も繰り返す。じっと唇を当てたままその熱を感じ、タイミングを計る。焦れたように彼が唇を開いた。そして僕の唇を食む。僕も彼の唇を食む、何度も何度も涎で滑るほどに顎を動かした。そして唇がピタリと重なった時、舌と舌が触れた。絡めあい、唾液を飲み、熱く浅い呼吸が早まっていく。そっと、彼の舌を僕の口で包み込む。初めはじっとしていたが、そのうちピストンし始めた。今回、入れられるのは僕の方だろう。彼は優しそうだからきっと愛撫を丁寧にし、少しずつ僕の身体を開いてくれるに違いない。汗がにじみ、薔薇の香りはより一層濃密になる。どこか冷静な頭が、コンドームとローションはベッドの隣の棚の、上から二番目の引き出しに入っていると告げた。
ピストンしていた舌と唇が離れ、僕は思わず目を開けてしまった。蓄えられつつあった熱が背筋の悪寒とともに冷えた。現実に帰るための用意が必要だったのに、それは突きつけられた。目の前にあった顔は遠ざかり、それはまごうことなくレイコさんの顔だった。ティッシュで口元を拭いている、僕がキスしていたのは北総さんじゃない、彼女だった。嫌悪感が募り、トイレへ駆け込んで吐きたくなった。
何故僕は彼女に「キスならできる」と言ってしまったのか、
何故、
何故、
木霊する、これはきっと、性的マジョリティの人が同性でキスした時の反応と同じなんだろう。人は理解不能の出来事が起こった時に恐怖する。僕の手は膝に置かれている。北総さんのあの美しい背中の曲線は僕の想像だった。羞恥のためなのだろうか、僕の身体が震えているのは。
「ありがとう」
彼女は言った。初めて彼女の口から発せられた彼女の感謝の言葉だった。そしてそれは残酷だった。僕の視界は滲んでいった。自分が泣きそうになっていることに気付き、腕で乱暴に口元を擦りながらトイレへ向かい、便座に座って泣いた。声を上げずに、掌で口を塞いで堪えた。僕自身にも分からない理由で零れ続ける感情が胸一杯に膨らんで、それが呼吸を、声を止めてしまった。哀しみに理由をつけることは出来ない。出来たとするならそれは後付けだ。僕の中には哀しみというただそれだけの名前では不十分な怪物が怒り狂い、僕に思い出させた。好きだったあいつを。教室で小説を読みながら、彼の声が聞こえる度に心の中で好きだ、と繰り返されたことを。初めての自慰の試みとその虚しさを。両親から結婚の話題が出る度に吹き上がる恐怖と罪悪感を。これまでの時間に味わった痛み全てが襲いかかってきた。
何故僕は女性に興奮しないのか?何故同性愛がマイノリティなのか?僕は異常で、常識からは嫌悪される存在で、ボタンを掛け違えたように最初からやり直さなければならない存在なのか?
忘れろ、と防御装置は言った。大丈夫、貴方は貴方のままでいい、そう受け入れてくれる存在を作った。暖かさが少しずつ怪物を宥めていく。そう、僕は大丈夫だ。
顔を上げる。涙はもう止まっていた。僕は僕のままでいい、その言葉を繰り返す。トイレの戸を開けて彼女に向かって笑いかけた。
「案外、出来るものだね。」
馬鹿野郎!と防御装置は声を張り上げた。
「上手だったわ。」
僕は歯を食い縛り、その言葉に耐えた。彼女が憎いわけではない、しかし彼女とのキスで気持ち良くなっていた自分を僕は軽蔑せずにいられなかった。案外出来るものだね、だなどと、良く言えたものだ。トイレに逃げ込んで女々しく泣いた癖に。
「ありがとう、でももうこの話題は止そう。」
僕は僕をこれ以上憎みたくなかった。なんと青臭いことだろう。何度も繰り返された、発作のようなものだ。こういった件、性的なことに関する自己嫌悪はまったく、中学の時から成長していない。北総さんはどうしてあんな目にあっても高校に通い続け、大学受験も受けられたのだろうか。嫉妬と尊敬が混ざり、また葛藤の波に揉まれそうだったのでそれ以上は考えないことにしたが、彼に会いたいという想いが岸辺に残された。
彼女は満足したようだった。読んでいたゲイ雑誌を持って寝室へ行き、それっきり戻らないので覗いてみたら、寝息をすうすうとたてていた。トイレで泣いただけの甲斐はあったようだ。と、自虐的に笑ってみる。彼女の欲求は満たされただろうか、なんて普通の人間なら考えない。でも僕個人は謝罪して世間様のご機嫌を窺いながら生きてきたようなものだった。彼女の顔色一つにも世間が凝縮されていて、それを探らずには安心出来ない。寝室の扉を静かに閉める。世間を僕の寝室に閉じ込めた。ここは僕の家だ、と久々に自覚した。
翌朝起きると彼女はいなかった。リビングで寝ていた僕を起こさずに彼女は出て行き、置き手紙を残していった。出て行きます、ありがとう、ごめんなさい、の短い置き手紙だった。レシートとそこに記されてある額チョッキリの金プラス、宿泊代とでも言うかのように一万円札が隣に添えられていた。彼女なりのけじめの付け方なのだろう。僕はそれらを寝ぼけ眼でぼんやり見つめ、内容を把握するのには4回読み返す必要があった。そして僕が思ったのは、漸く休暇が始まったんだなということだった。前年度は使わなかった有給を今回一回で使いきるよう申請したので、まだ千葉に帰ることは出来た。顔を洗いながら、ごめんなさい、とは何に対してなんだろうかと考えた。そしてタオルで顔を拭いた。その時少し臭ったので取り替えようと洗濯機と洗面台の間のラックから新しいタオルを取り出した。その時気付いたのだ。ラックの上にネックレスが置き忘れられていた。恐らく入浴する際に外して、そのまま忘れてしまったのだろう。僕は彼女の連絡先を知らない。作曲家の取材に行った時に自宅へ電話をかけたので、調べれば分かる。とてつもなく面倒だ。距離もある。届けるなら場所を調べないといけない。悩むところだ。
忘れたことに気付いたら取りに来るだろう。そのネックレスには触れずに無視する事にした。
千葉へ行くための準備をしていると、チャイムが鳴った。彼女が気付いて取りに来たのだろうと覗き穴から外を見た。すると、そこには1人の中年の女性が立っていた。チェーンロックを掛けた後、扉を開いた。
「何のご用でしょうか。」
「ネックレスを、返してもらいたいの。」