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「ねえ私、さっきの雨に降られてこんなに濡れてるのよ。早く中に入れてほしいの。」
まず君は誰だ、と誰でも問うだろう。しかし僕はしなかった。女性と親しくした覚えは無いし、ましていわんや部屋に入れたことなど無いからだ。きっと誰かと間違えてるんだろう。僕は彼女を無視して鍵を開け、素早く扉を閉めようとした。が、彼女は咄嗟に鞄を挟んでそれを防いだ。
「コールガールは呼んだ覚えがありません。それにやけに強引じゃないですか。貴方は今、不審者です。警察を呼びますよ。」
「早波出版にお勤めの奥田さん、さっきのこと言いふらしますよ。」
それを聞いて僕の頭の中は螺子が吹っ飛んだ挙句高速でタービンを回して蒸気を出した。何故この見知らぬ女が僕のことを知っているのか。僕は彼女の顔を観察した。その眼は瞬きもせず僕を威圧し、眉毛は凛々しくきっぱりとしていた。束ねていても分かるストレートヘアは肩より下に長く、そこから水が滴っていた。このまま彼女を帰したらどうなるだろう。大体が何故僕の名前や出勤先や部屋番号を知っているのか、何を言いふらすつもりなのか。
「分かった。とりあえずまず、風呂に入りなよ。部屋違いじゃないみたいだし。」
僕は彼女を部屋に入れた。女は、着替えとタオルを借りたい、とさらに要求してきたが、ここまで来たら後は世話するしか無いと思って、肝をどっかり据えて貸すことにした。僕の長所はこういう理不尽な出来事が起きた時に発揮される。被害を最小限に留めるための最善の流れが、なんとなく読めるのだ。
彼女が部屋の中に入る時、雨水の中に花が咲いているような香りがした。その香りに覚えがあったがどこで嗅いだのかは分からなかった。その花の名前を思い出せない。彼女の正体を知る唯一の手段だろうと頭を抱えたが、相変わらずカランカランとしか鳴らなかった。そうこうしているうちに彼女が来た。僕の貸したTシャツと短パンを来ていても彼女は美人だった。かえって下着をつけていないときているので世の男達であれば彼女を放っておかないだろう。
「君の名前を教えて欲しいんだけど。これから話す時に必要だから。」
「レイコよ。」
「上の名前は?」
彼女はここで酷く驚いた表情をして、あなた私を知らないの、と逆に訊き返した。正直言って僕は呆れた。自意識過剰なんじゃないのか、と思わず口に出しそうになった。それでも彼女は真剣だった。
「貴方、TVを見ないの?」
「昔は観てたよ。」
「AVは?」
「ははん、ということは君はAV女優か?」
これは自分でもなかなか上手い返し方だと褒めてやりたかったが、彼女のいる前で自分の頭を撫でることは出来ない。
「クリモトキョウスケは知ってる?」
「作曲家の栗源恭介のことなら、取材に行ったことがあるから君以上に知ってるつもりだ。」
「その娘よ、私。」
酷い眩暈を起こした時のように僕の脳は平衡感覚を失った。そして記憶がグラグラと揺れながら蘇ってきた。
取材に行った僕。綺麗な屋敷。晩年になって評価され始めた作曲家。差し出した名刺。ガラスのテーブル。勧められた紅茶。その時の女性の薔薇の香り。
あぁ、と声が漏れでた。どうやら思い出したみたいね、と呆れ顔で呟く彼女はまさしくあの時の女性だ。僕はつくづく自分には物書きの才能は無いなあとぼんやり考えた。作曲家の取材に行って何故その娘を把握していないのか。
「暫くここで休ませて欲しいの。じゃないとあることないこと言いふらすわよ。私には影響力があるんだから。」
何で僕の家に。悲鳴のような声で彼女に訴えると彼女は言った。
「貴方がとことん私に無関心だったから安全だと思って。」
塩をかけられたナメクジのように僕はすっかり反論する意欲を失った。手元にあったリモコンでやっとエアコンの電源を入れて、そしてたった一つ、今の僕を慰めてくれるものを見た。咄嗟に財布に挟んだ彼の名刺。そこには、北総孟、ほくそうつとむとルビを打った彼の名前と携帯電話番号が書かれていた。
北総はそのころ、同僚の友人である柿谷の家に居た。
「今日、じゃなくて昨日、ここに来る前なんだけど良い人と出会ったんだ。」
へえ、と柿谷が携帯を弄りながら答えた。画面の中ではチェスが行われていた。そして、お前は異性に興味が無いものだと考えていたと、そんな意味のことをバラバラの文脈で言った。誤解が生まれていることを知りながら北総は話を続けた。
「そしたらその人に急な客人があったみたいで、結局部屋には入れなかった。」
北総は柿谷のベッドの上で枕を抱いてゴロゴロと転がって、うっかり端から落ちた。柿谷は吹き出し、そして何手先のどんな手を考えていたかを忘れてしまった。北総はしたたか打った背中をさするつもりはなかった。虚空を見て腕をぱたり、ぱたり、床に落とした。その途中で片手がベッドの枠に当たり、彼はわざわざ手をベッドの下に滑りこませる労を負わねばならなかった。そして、指先にコツリと何かが触れた。それを指先でなぞり、掴み、闇の中から引きずりだし、そのビデオのパッケージを電球の下で見た。
「あ‼この人だよ、扉の前に立ってたのは!」
柿谷の腕を引っ張り無理矢理それを見せた。
「栗源レイコ?そんなバカな。」
つくった胸の谷間にネックレスがぶら下がって、それが視線を誘う。奥田さんは雑誌の穴を埋める作業だと言っていたが、その関係で知り合ったのだろうかと、あの青ざめた表情を追想した。
奥田は7時になると、朝ご飯も食べずに外出の準備を始め、今は休暇中であることを思い出した。そして昨晩の災難が嘘か夢であるように願い、その次の瞬間にはレイコが寝室から出て来た。お腹空いたわね。そう言いながら出て来た。僕はそもそも、北総さんと映画を観ながらゆったり過ごし、彼が帰ったら荷物をまとめて千葉へ旅立つ予定だったのだ。こんな筈じゃなかった。きっと彼女は僕を奴隷のように虐げてやれ飯を作れだとか、やれ肩を揉めだとか言って、僕が強行手段として彼女を無視して千葉へ旅立つにしても泥棒が入ってもいいの、なんか言って僕を留め置くのだろうと考えた。だが彼女は寝室から出て来た自然さで台所に入って行って冷蔵庫を開けて、何も無いわねぇ、と言って簡単にありあわせの物で僕らの朝ご飯を用意した。「僕らの」だ。つまり僕の分も含まれている。
「料理が作れるとは思ってなかった。」
正直な感想を漏らすと彼女は言った。
「父の生活面での世話は私がしてるって言ったでしょう?」
それっきり、食事中僕らの会話は無かった。
言ってみれば、彼女は新しく買った家具と同じだった。初めのうちは部屋が狭く感じたりどのように扱えば良いのか戸惑ったりするものだが、時間が経つにつれて、その役割に収まって狭さにも慣れていくものだ。洗濯は気付いた方がしたし、掃除もそれにならった。ただ、食事は外に食べに行く必要が無くなり、買い物は僕の役目になった。彼女は男性にはよく見慣れた女優であり、また流行りの作曲家の娘がAV女優だというスキャンダルを知っている者にも覚えがある、所謂有名人であるので、外にはあまり出たくないとのことだった。僕も食費がやや安くなるので文句を言わずにその役割を引き受けた。
事件が発覚したのは僕が買い物から帰ってきた時だった。
レイコは退屈していた。家事だけで一日は終わらない。もっと膨大な量の時間潰しが必要だった。クーラーの効いた部屋で、本やビデオ、一人トランプで暇を潰すつもりはない。セックスがしたくなってきていた。飢えはジワジワと迫っていたが、ハイエナやハゲタカのように余裕を持って待っていた。彼女が何度も誘うような素振りを見せても彼は無関心だった。そこで、彼がいなくなる一定の時間、つまり買い物している間に自慰で済ませることにした。長く白い指、この手はカメラの前でも物怖じせずに役目を果たした。できる、と信じて彼女は目をつむった。5分もあれば十分の筈だった。しかし絶頂へと上り詰める途中で必ず奥田の無反応を思い出し、一気に枯れてしまうのだった。色んな趣向でやってみた。陵辱、SM、人妻、素人、その他。それでもやはり途中で熱が奪い去られたかのように冷めるのだった。それだけ奥田の無反応が徹底していたということである。顔を隠さずに外を歩けば必ず何人かは振り返るか立ち止まる、そんな生活に慣れていた彼女にとって奥田の無関心ぶりは衝撃的だったのだ。彼は、AVに何十本も出演している彼女に、誰だ、と尋ねたのだ。これが彼女のプライドを少し傷付けた。しかし傷付けられたとしてもそれはAV女優としての自分を全否定したというわけでなし、仮に全否定されたとしても彼女は彼女の生き方としてこの職を選んだのだ。彼女にとってSEXは食欲のような自然な欲望とみなしていたし、それを満たすことはレストランの調理人と同じだった。誇れる職では無いが需要がある、必要不可欠と考えていた。
(これはオカズが必要だな)
彼女はパンツから指を抜いて手を洗うと、次に家捜しを始めた。計画としてはベッドの下、ベッドとマットの隙間、本棚の奥、または表紙だけ変えているなどの可能性から当たってみることにした。それは何なくベッドとマットの間に見つかった。やっぱり男ね、これでアイツの嗜好も分かるし、一石二鳥。そう笑いながら引っ張り出したものを見て、彼女は絶句した。
僕が買い物から帰ると彼女は台所には立っていなかった。洗濯機の前ににも、風呂場にも、ベランダにもいなかった。そして僕は寝室の扉が少し開いていることに気付いた。部屋から出る際には絶対に閉めている扉だ。お呼びでない客が来てからは余計に注意を払っていた。嫌な汗がこめかみに滲んだ。一番恐れていた事態かもしれない。首を締められているような息苦しさで動悸が聴こえてきた。そして、寝室の扉を押した。
そこに彼女はいた。僕の買っている雑誌を持って。
「貴方が私に手を出さない理由が分かったわ…。あの夜に連れて来た男性のことも…。」
彼女は雑誌を閉じた。閉じられる前のページには、男同士で絡み合う写真がでかでかと載っていた。今更ながら事実を述べるが、僕はホモセクシャルだ。