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最初に思ったのが、ネックレスを返す相手がいなくなってしまったということだった。次に、『不審死』という単語が焼き付いた。
「お客さん!」
僕はぶるりと身体を震わした。
「新聞も買われますか?」
僕は新聞も台の上に置いた。新幹線の中で読むところによると、彼女は鴨川沿いの河川敷でベンチに座った状態で発見されたそうだ。特に外傷はなく、第一発見者もその顔に見覚えがなければただの寝ている酔っ払いとして見過ごすところだったという。周辺のホームレスが死亡推定時刻に怪しい男を見かけたとの目撃情報があり、その男を重要参考人として捜索しているとのことだった。ここまで状況を把握するのに何回か読み返した。僕は何度も彼女とそのネックレスに関わりたくないと考えたけれど、こんな形で縁が切れるとは思っていなかった。手元に残されたネックレスのことを思った。持ち主とその役目を失ったネックレスの行方を。レイコさんと最後に話したのはいつだ?昨日の、確か、昼頃だ。
今日家に帰れば彼女に会える筈だった。
案の定、家に帰ると鍵がかかっていなかった。ドアを開ける前、隣の部屋、階段の都合上位置的には垂直にドアが並ぶ隣人の女性が出てくるところだった。それは例の中年女性だった。成る程、そこからなら監視はし易い。僕の顔を見ると彼女は半分出した身体を引っ込めた。免許証の偽造で警察に突き出してもいいが、彼女のついた嘘にはもう興味が無かった。彼女もまた、役目を失った人間なのだ。部屋に入るとすぐの、玄関兼台所に彼女の香水の匂いが残ってはいたが、荒らされた形跡は無かった。通帳の位置などが変わったり無くなったりしていないか確かめたが、東京へ発つ前と変化は無かった。彼女がいなくなってしまった以外には何も異変は無い。寝室のベッドに転がると懐かしい匂いがした。これは僕の匂いだ。レイコさんがいる間はずっと彼女に貸してソファーで寝ていたから、今日からここで寝れるのが嬉しかった。ここは僕の家なのだとシーツは語りかけた。このまま寝てしまいたい。随分と遠くまで旅をして、結局は何にもならなかった。腹が減っただけである。そうだ、お腹が空いている。
「何か食べないと。」
声を出して自分を励まし、重たい身体を持ち上げる。パスタとトマトとモッツァレラチーズが残っていた。トマトを切りながら、レイコさんの台所に立つ姿を思い出した。僕が安売りのピーマン、胡瓜、豆腐、高野豆腐、長芋を買ってきた時でも彼女はそれを見事な煮物にした。人参、じゃがいも、玉ねぎ、肉、のようなカレーの材料を秩序だっていると仮に言うならば、その煮物は全く無秩序になる筈だった。しかし汁の中にそれらの味が浸み出し、渾然一体となってその味が材料の中に戻っていった。違和感なくまとめ上げるのに僕は何を使ったのか尋ねた。
「下茹でしたのと、あとは出汁じゃない?」
兎に角彼女は料理上手だった。僕はスライスしたトマトとモッツァレラを交互に重ね皿に並べた。パスタが茹で上がりざるにあげる。ソースとからめて僕の夜食は完成だ。手を洗いタオルを取ると薔薇の香りが馥郁として、僕の目をくらました。それはレイコさんの残り香だった。僕は確信した。ただ台所に立っていただけではここまで強く匂わない。香水と混じった汗が染み込んでいるのだ。僕は背凭れに背を預けて、暫く食事をする気分にならなかった。
彼女は『ここで殺された』のだ。
僕はソファーに座って夕食をとった。皿を洗い、洗い上がった洗濯物を物干し竿にかけると、北総さんに連絡をとった。
「それはいいですね、場所は覚えてます。また後で。」
もう一度彼の名刺を見た。白地に黒のインク、ほくそうつとむと振られたルビ。何故か彼の名刺は僕を安心させるのだった。僕と北総さんとの住まいはさほど離れていないらしい。地図でイメージすると、バー、僕の家、北総さんの住まい、を頂点とする、鈍角の無い二等辺三角形を描くことができた。20分程で彼は来た。歩いて来たのだという。手土産にチューハイの缶を持って来てくれた。
「いらっしゃい。ありがとう、来てくれて。」
「こちらこそありがとうございます、お邪魔します。」
「映画だけど、BROKEBACK MOUNTAINを流してもいいかな?」
「あ、好きな映画です。」
僕は本懐を果たそうとしている。レイコさんとキスする時だってこの映画が頭にちらついていた。僕は映画館の雰囲気を出すためにと建前を述べて、明かりを消した。
「さあ、上映会だ。」
チューハイの缶を開け乾杯する。テーブルの上には鯵の干物とさきいかをつまみとして出した。北総さんと2人きりで話せるのだと思うと胸が騒いだ。何を話せばいいのか分からない。
「えーと、仕事はどう?」
「ええ、今日も大変でしたよ。筐体の開発をしてるんですが、iPhoneとそれに付随して開発されるゲームのアプリが出て来た中で生き残れるか心配しています。」
キョウタイ、とは何か一瞬、漢字変換出来なかったが、少し考えて彼は筐体を開発する仕事をしているのだということが分かった。僕の中の北総さんのイメージでは、雲の上に住んでいるのではないかと思えるほど生活感の無い人だった。今は、雲の上から下りて僕と話をしている、一般的だが大切な人だ。僕は彼の頬に軽くキスをした。彼は雲ではなくきちんと実質をもってそこに存在していた。
「今日はゆっくりしたい。ずっと奥田さんに会いたかったんです。連絡はしなかったけど、何度かここに立ち寄ったりもしたんですよ。」
僕の顎を持って耳にキスし、会えることは期待していなかったけど、と囁いた。
そして彼女を殺したの?
言うまいとしていた言葉が唇から零れた。彼ではなく僕の身体が固まった。離れていった北総さんの目は悲しげだった。見ているだけで突き刺さるような痛みを感じた。怖かったんです、と彼は言った。
「女性が怖いという話はしましたよね。それ以来、何度か、衝動的にやらかしてしまったことはあったんです。帰り道にあるポスターを夜更けに破ってまわったり、後ろから目隠しをして殴ったり。怖くて堪らないんですよ、特に夜は。」
レイコさんの君を見る目は、高校の同級生の目とは違う筈で、殺す必要は無かったのだと僕は意見を述べた。北総さんはそれでも怖かったのだという。今働いている職場も男性が殆どで、女性とはなるべく目を合わせないようにしているそうだ。それが、ここに寄ってインターホンを試しに鳴らすと、出てきた彼女と目が合ってしまった。その時にスイッチが夜のソレに変わってしまった。彼はドアを閉じかけてから一気に引っ張り、バランスを崩して倒れ込んだ彼女を逆に室内へ押し倒した。口を押さえ、手近にあった、僕が台所用に置いていたタオルを取ると、それで彼女の首を締めた。幅広で厚かったので、彼女が絶命するまでに時間がかかったそうだ。その間に北総さんは一度正気に返り、タオルを引き絞る手が緩んだ。その時彼女は、いいのよ、と言ったそうだ。役目は果たしたから、と微笑んだ。彼はその笑みと、高校時代の女生徒達の笑みとを混同し、次に正気に返った時には、動かない死体ができていた。死んでいても、北総さんは彼女を綺麗だと感じた。整ったプロポーションと、白く冷たい肌が石膏像を想起させた。そしてせめて、彼女に相応しい綺麗な景色の中で亡くなっていてほしいという願いから、鴨川沿いのベンチに座らせたそうだ。
「いつも、やってしまった後はどうしようもない虚無感に襲われます。仮に裁判所で動機の説明や弁明を求められたとしても、私はきっと何も言えないでしょう。誰かに正確に伝えようとしても、言葉にすると違ってくる。根本的な感覚が違うので、同じ言葉でも受け取り方が異なるんですよ。説明しても、きっと向こうは違った解釈をするか、訳が分からなくなる。誰にも理解される筈はないんです。」
僕は彼を力一杯抱きしめた。いつの間にか外は静かに雨を降らせていた。しっとりとした闇の中へ彼が消えてしまうイメージが脳裏に浮かんだ。手が届かない彼の孤独が痛々しく、胸が詰まった。孤独は夜だ。
「君は僕も殺すのかな。」
北総さんは答えず、僕の頭をただ撫でていた。彼の身体からは、彼が最初に部屋に入ってきた時と同じ、薔薇の匂いがしていた。これが無ければ、僕は北総さんのことを何も知らないままで部屋に上げることになったのだ。
「薔薇の匂いがする。」
彼は少し黙ってから、夜明け前にレイコさんを組み敷いて首を締め、そのまま家に戻って風呂も浴びずに出勤したので、それでまだ匂いが残っているんだろうと言った。僕もそうだろうと思っていた。
僕は頭を上げて再度キスをした。今度は彼の唇に。僕は溜まった熱に震えながら、貪り、彼のシャツを脱がしていく。北総さんも僕のズボンのジッパーを下げ、Tシャツの中に手を潜らせた。想像どおり、潮の満ちるように緩やかな愛撫だった。僕は彼の唇から離れ、愛おしい首に、胸に、キスを落とした。
「何故泣くんですか。」
北総さんの問いに、僕は横に首を振った。一々かかずらわず、分からないままにしておきたかった。
宇宙の汀に僕らは漂う。オーロラに包まれて、あるいは、螺旋を描きながら墜落して。僕の知る世界は狭い。衛星軌道から外れて宇宙に飛び込んでいけたら求めるものはそこにあるだろうか。地球には渚があれば地平線があり、夜明けというものがある。しかし宇宙に夜明けはない。汀はあるが夜明けは無いのだ。僕は北総さんの孤独を救えない。誰も彼を救えない。宇宙の汀は広過ぎて、小さな僕らには彼が見つからない所にいると気付くのにも時間がかかる。軌道を外れた彼を、汀にいる僕らがどうして見つけられようか。
もしも宇宙に夜明けがあったなら、僕らは同じ空間にいることになる。そこに孤独はない。僕は繰り返し考える。夜明けがあって北総さんを照らす何かがあるのなら、僕はその場所を忘れず記憶して彼の後を追おう。そして今みたいに力一杯抱きしめたい。彼がそれ以上何処かへ行ってしまわないように。
パトカーのサイレンの音が近付いてくる。まだ僕は、彼の虚ろな肌を感じていたかった。