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チキンクリスプマフィンとコーヒーをSサイズで注文して、合計200円の朝食がトレーで手渡されると、二階へ上がってカウンター席に座った。1人客が多いのを見越してか、テーブル席は三つ程だった。僕はそこで、裁判官のユニークな発言を綴った単行本を読んでいた。
窓際の席だったもので、夏の高い朝日は僕には嫌味に思えた。だって、この暑いなか、オーブンで蒸し焼きにするようにじわじわ熱を与えるんだもの。それでは、君は席を移れば良いじゃないかとなる。僕もそう思う。
でもそういうわけにいかなかった。柱と壁の都合上、その席は一番荷物を引ったくられにくい位置にあったからだ。僕はその席を見つけた瞬間から、ここしかないと思って、惹きつけられて座らざるを得なかった。不可抗力だ。一般男性が女子高生へと無意識に視線が向かってしまうのと同じだ。生理的反応なのだ。
ともかく僕は、汗が額にとどまっている間に急いでチキンクリスプマフィンを口の中に詰めた。白い粉で少し噎せた。それから氷がザラザラ音を立てるアイスコーヒーを、氷が溶ける前にと啜った。食事は非常にファストだった。そしてぼんやりと単行本を逆さに開きながら今日の予定について考えた。僕は何かしらが起こる気がしていた。それは朝焼けと日の出の瞬間を見たからだった。
空よりも雲の方がその藍色を濃くしていたものが、白み始め少しずつ青みがかっていく。そしてとうとう、黒ずんだ木炭みたいな山の稜線から太陽が顔を出した時、世界に白い光が溢れて光と影とを生んだ。僕は何も聖書を書くつもりではない。ただとても神秘的で啓示的だった。僕には初めての体験だった。毎日はこんなに美しく始まるのか、とタオルケットに包まりベッドの上で胡座をかきながら、今日一日を大切にしようと思った。それでも結局ファストフード店で読み難い本を読んでいる。読み難いというのは、読解が困難とか、難しい漢字や言葉が使われているということではない。興味をそそられないのだ。まるで砂漠のように不毛な読書だった。
一応、僕は物書きである。とある雑誌の隙間を埋める作業が僕の仕事だ。仕事に臨むにあたって、大抵差し障りのないことを書いておけば良いのだが、僕は一つ物を書くのに時間も体力も語彙も知識も全部、切り崩して書いてしまう。才能というものがあればサラサラっと仕事は仕事として片付けられるのだが、僕の場合には、仕事は心の根っこを掴まれて、「ありったけ、あるもん出しな」と脅されているように感じる。正直僕の頭の中にあったものは、最初の十数作でカランカランと音を立てるほどに干上がってしまった。感動を伝える表現どころか、感応性すら失ったようだった。それで、これじゃ間に合わないぞと慌てて読書を始める。カビ臭い古本屋で短編ならば最初の数行、長編ならば適当に開いたページに魅力を感じたか、という至極大雑把な方法でアイデアや新しい着想を得ようと必死である。勿論たまに失敗する。今回がそうだった。
僕は単行本を鞄に突っ込みトレーを持った。そしてショップの店員の「いらっしゃいませ!」という声に叩き出されるように街路に出た。外に出たので改めて言うが、猛暑である。頭の中はカラカラと鳴るどころか外に出た途端ドロドロと思考を溶かされて、僕はほとんど家に帰ってクーラーをつけることに集中していた。それでもなお、何故だろう、何かに出会えるという確信のようなものはドロドロの中で奥の方にへばりついていた。横断歩道を渡る。白だけを踏むように小股に歩く。ほらやっぱり、今日はリズムよく歩けた。やはり何かが起こる気がする。君はそこで立っているのが辛くはないか、と問うてみる。バス停の看板はその質問に対して寡黙だった。なんという勤勉さだろう。この暑さの中でも本分を全うしているのだ。敬礼したくなった。
僕なんかは、休暇をとらせてほしい、とこれから上司にお願いするところであるのに。
案の上最初は渋柿を間違って口にしたような顔をされた。そしていくらか説得もされた。しかし京都の暑さは尋常ではなかった。一刻も早く千葉の実家兼避暑地に帰りたかった。僕はとうとう自分の無能さを声を張り上げてまくし立てた。そこでようやく、確かに君には休暇が必要らしいと許可がおりた。もっと周囲の注意を集める前に許可が欲しかったが仕方がない。
休暇だ。バカンスだ。
僕の翼は脱獄したイカロスのように羽ばたいた。
そして言う迄もなく墜落することとなる。
上司から休暇の許可が出ると僕は早速お気に入りのカフェへ向かった。この店は昼間はカフェ、夜はバーとして経営している。昼時なので今はランチを食べられるはずだ。双子が店を開いていて、一方がカフェ、もう一方がバーを担当している。半年に一度行くか行かないかの頻度だが、僕は顔を覚えられていた。そして最後に出る時にはウイスキーの水割りを空にすることも知っていてくれる。編集担当は物わかりが悪く、くどくどと説得されたため、もうランチが終わるか否かという時間になっていた。まったく、仕事をしていると時間に置き去りにされる。僕の頭の中には冷んやりした空気の中で香りたかいフランスパン、スープ、パスタのセットがぐるぐる輪を描いて回っていた。
「いらっしゃいませー。」
「ランチまだやってますか?」
「すみません、ランチは2時までなんですよ。」
間に合わなかった。
「ですが、特別にご用意しましょうか?」
軽く首を傾げて彼は言った。その角度は彼のもつ優しさとしなやかさを表現しつくした絶妙の角度だった。
「お言葉に甘えます。」
僕はメニューも見ずにAランチを頼むと、入り口に置かれた本棚から「雪沼とその周辺」を取ってカウンターに座った。今日は素敵な出会いがある、その予測がいよいよ確かなものになった気がして、本を開く前に僕は数回深呼吸をして鼓動を落ち着ける必要があった。昼食を食べた後、さらにコーヒー一杯を注文して、それで本2〜3冊分の時間を稼いだ。その間客は一人も来なかった。6時頃になって自分はひょっとすると暇人なのではないかという考えが浮かんできた。客は来なかったが双子のもう片方が階段を降りてきた。7時になると、本を読み続けるのは得意の筈なのに目のピントが合わなくなってきた。本から意識が離れた時に、調理場の奥の方から双子が談笑している声が響いていることに気付いた。僕はこの双子の本名を知らないが、兄を13、弟を11と呼んでいた。彼等がカフェとバーで役割分担をしていることと、見分けを付けるために、彼等はわざとその数字が書かれたTシャツを着ていた。8時になって11は階段を上がっていき、13が調理場で氷を丸め始めた。さあ、とうとう休暇の始まりだ。僕は朝から始まった出会いの兆しの数々を思い出して期待に胸を熱くした。この時間になると仕事帰りの人達でこの狭いバーの中は溢れる。最初に入ってきたのは額が大分広がってきた中年男性である。僕の方をチラリと見たが、僕はそれを即座に無視した。13にエールを注文して後ろの方で椅子を引く音が聞こえ、僕は再び空想の世界へ戻って行った。数十分後だろうか、今度はクールビズのためにネクタイもなく、腕まくりをし、ボタンも一番上をを外した男が入ってきた。細い眉に長めの睫毛が一重を憂い気に覆い、髭の丁寧に剃られた瓜実顔が清潔感と涼やかさを醸していた。僕は静かに本を本棚に返し、振り返って彼をじっと見つめた。彼はその視線を上げ僕と目が合うと、そっと微笑んだ。
僕は可能性に賭けてとうとうウイスキーの水割りを頼み、彼の元へ歩いて行った。
「誰かと待ち合わせですか?」
彼はそれに上目遣いの笑顔で応えた。
「いえ、誰とも。」
「ここに座っても?」
「いいですよ。」
近くで見ると白磁の肌の滑らかさをより確信することになった。
「仕事帰りですか?」
「ええ、そうなんです。貴方は?」
「物書きをしています。小説ではなく雑誌の、あるでしょう、一頁にも満たないような量の文章が。そういう慎ましいのを書いています。」
僕は些かしまったと思った。これでは小説家は慎ましくないかのように聞こえる上に、自分でも下らない文章に慎ましいという言葉を使ってしまった。これだから僕は文才が無い。しかし相手はそんなことは意に介さず、へえ、とだけ話しを合わせた。
「私は、ここを下った…いえ、やっぱり秘密にしておきます。ここに来るのは初めてなんですよ。前から気になってはいたんですが、今日まで機会がありませんでした。」
「それは、その…飲み屋として気になっていたのか、別の意味で来たのか…どっちですか?」
「後者ですね。」
僕が心の中でガッツポーズをしたことは誰にも分かるまいが、多少落ち着きをなくしたところはあるだろう。
「僕は映画を観るのが好きなんです。家にいくらかビデオを持ってる。好きな俳優はいます?」
「好きな俳優は…あまり無いですが、好きな映画は、ハッシュや真夜中のパーティですかね。」
彼はそう言い終えて莞爾として笑った。僕もつられて口の端が上がった。この場所に合わせた彼なりのジョークらしい。本当はもっと沢山の映画作品を観ているらしいぞと推測できた。
「じゃあ、僕の家に来ませんか。1人で観るのは淋しいものですから。」
「ええ。でも折角ここに来たんだし、何か注文しても良いですか?」
「構わないよ。」
彼はジントニックを頼むと、向き直って言った。
「そういえば、貴方の家に女性はいますか?」
「いや、1人暮らしだ。」
「女性のポスターや部屋がピンク色だったりしません?」
「無いよ。部屋もピンクじゃない。強いて言うならダークグリーンだ。」
「良かった。安心しました。」
彼の顔に再び微笑みが戻って、僕も安心した。
「どうしてそんなことを気にするの?」
「いえ、そのう…嫌な思い出が。」
両手を挙げた。攻撃するつもりはないことを示すために。
「ごめん。無理に訊くことじゃなかった。話さなくても良いよ。」
「いえ、大した事じゃないんです。…高校で、何故か私がアレなんじゃないかという噂が流れまして。自分では隠していたつもりなんですが、やっぱり滲み出るものなんですかね、お陰で好きな人からも気持ち悪がられて、噂に尾鰭もついて、学校中が僕を異人のようにみました。その視線の意味を知ったのは私が最後で…。噂を担任の先生から教えてもらったんです。私は別にその噂が辛かったのでは無いんです。事実ソレですから。私が一番怖かったのは、女子の目でした。その噂を意識して学校生活を送るうちに、明らかに異質なものを感じたんです。何と言えば良いんでしょうね。…私を、まるで、檻の中の珍しい獣のように…そう見られている気がしました。相手は私を恐れていないんです。むしろ安心して、私と全く違うフィールドに居るみたいに、私を異世界に追いやって言葉も通じなくしたように、好奇の目で鑑賞しているんです。噂の尾鰭も、男子よりは女子の方が盛んにくっついていったみたいです。今日はこんな事をしていた、授業中誰某をみていた、好きなんじゃないか、とか。それ以来、萎縮してしまうようになってしまって。」
ジントニックが手渡された。僕は彼の気持ちになって考えてみた。教室の真ん中で、僕は皆と同じ人間のつもりだけど、白いチョークとコンパスで描かれた完璧な円の中に閉じ込められて、彼女達は僕をニンゲン、と呼ぶ。吐き気でウイスキーが揺れた。
「高校は中退?」
「いえ、大学まで行きました。」
僕は深く息を吸って、彼の切れ長の目の中を見つめた。
「乾杯したい。」
「いいですね。」
僕が軽くウイスキーを持ち上げると、彼もジントニックを少し上に持ち上げた。そうして、同時に残りを一気に飲み干した。
僕の家までは行きと同じようにバスで帰った。隣に彼を連れて。
「京都観光しようしようと思っていても、現地に住み始めるとつい後回しになるものですね。」
そう小声で呟きながら彼は雨粒のぶつかる窓の外を始終見ていた。
僕の家はアパートの202号室である。ここでわざわざ書いたのは、それが事実であることを自分自身に確かめるためだった。僕が彼を案内しながら部屋の鍵を取り出して二階に出た時、僕の部屋の前には黒髪を後ろで束ねてサングラスをかけてピンクで花柄のワンピースの上に軽く上着を着た女が立っていた。
「遅かったわね。」
僕はハンマーで横から叩かれて螺子が全て吹っ飛んだ衝撃の中で最善を考えていた。そして一旦彼と一階に降りた。
「嘘じゃない。あの女は知らない。」
彼はやはり微笑んでいた。
「でも、帰ります。」
「僕は君と親しくなりたい。また会って話をしたい。これ、僕の名刺だ。君の連絡先と…そうだ、クソ、まだ名前も知らないんだった。」
「じゃあ名刺を交換しましょう。」
僕の名刺を財布に収めた彼は、次にカードケースを出して名刺を差し出した。
「本当に、嘘じゃないんだ。あの女は知らない。」
「…でも僕は、帰ります。ごめんなさい。貴方のことを嘘つきとは思ってません。貴方、顔が真っ青ですよ。今日はよく休んでください。」
そう言って彼はしっとりした夜の闇の中へ歩いて行った。僕は今日一日の幸福な気分を一瞬思い出し、それらが彼との出会いを指すものでは無かったことに失望し、また彼の本名と連絡先を得た喜びをまた感じた。混乱の中祈りながら部屋の前に戻ると、祈りの甲斐なくやはり彼女はいた。
「どうして私を部屋に入れようとしないの?」