没入感
※ 個人の意見です。
テクストの物質性をひとまず前提としておくのであれば、読み手がその内に作り出す作品というのはテクストの幻影に過ぎない。単純に考えるならば、読み手が見ているものはインクの染みの羅列(この文章のように電子機器媒体の場合であれば、フォントの映像)に過ぎない。それらを“文字”として認識し、また、その“文字”に意味を見出すのは読者自身である。
いま、幻影という言葉を使った。それは、読み手が自らの内に作り出した物語を捉えることが非常に困難であるからだ。読み手は読書をしている時、自らの内の物語世界に没入している。過保護な視線の項で少し述べたが、その没入感は少しの違和を見逃させる。そして、物語世界から脱したときには読み手は何らかの感化を受けているはずである。例えば、読書直後に未だに登場人物と自らを切り離せず、現実の方に現実感がなくなるような、そういった経験があるものもいるだろう。
ここにひとつの困難が隠れている。もちろん、没入感というのは読書をする上で非常に重要なものである。しかしながら、没入感を得るためには読書のための一つの視点である分析的な視点を閉じていなければならない。
読書に没頭しているとき、読み手は書かれていないことを適宜補いながら読んでいる。そして、それまで補っていた部分に対する描写があったときには、そうした箇所に修正を加える。これは読書の最中にはそれほど意識されない活動である。たとえば、とある小説に対して挿絵が付いた時に、何となく違和を感じることがある。それは自らの内にある物語世界と他者の物語世界とのズレが明示されることによるものだといえる。絵を描いたものの誤読によるものもあるかもしれないが、それにしても、その人のうちの物語世界においてはその画像こそが正解である可能性がある。
ここでは絵を描く能力というのはそれほど重要ではない。幻影ということばを使ったように、読み手の内側で空白が補われた像というのはそれほど明確なものではない。意識して明確化しようとすると、とたんにモザイクがかかったようになってしまう程度のものである。「自分は明確に思い浮かべられる」というものもあるかもしれないが、それはある種の天賦の才と呼ばれるものか、あるいは、どこかで見たことのあるもののコラージュであるかのいずれかであろう。
言い方を変えるならば、読み手のうちにある物語世界とテクストからおこされた絵の間にうまれる摩擦というのは、曖昧なものが明確なものになることに対する違和感ということもできるのかもしれない。
読書という行為には、読む方向性と書く方向性がある。読書に没頭するということは、書く方向性に傾くということであり、テクストではなく内側の物語世界に没入するということでもある。テクストそのものを捉えるということが原理的に不可能であるのだが、少なくとも、読書に没頭すればするほど空所の補充、あるいは幻影の拡大は避けられないものである。結果として、テクストと読み手のうちの物語世界とのかい離は進む。
没頭した読書の実体を捉えることが不可能であり、それが幻影である以上、その感想というのはテクストの感想ではない。読み手の内側に生まれた物語世界の感想に過ぎず、その正確性や妥当性は低いものとならざるを得ない。つまり、それは自分語りである。
読書そのものが読み手を変質させうるものであり、また、日常生活者としての読み手はその日常のなかでも大なり小なり変質していっている。つまり、読書の経験を思い返す、読み返す、あるいは、日常を送っていてすら読書経験も変質していく。もとの読書経験がどのようなものであったのか捉えることはさらに困難であるといえる。
読書の書く方向性、つまり、物語世界を自らの内に描きだし、そこに没入する視線は読書のためになくてはならないものである。しかしながら、感想あるいは批評を述べるに当たっては、没入する視線のために分析する視線を閉じている訳にはいかない。とくに、批評というのは説得力が命である。論理的な手続きを踏んだうえで、論拠を示さなければならない。この論拠は自らの内側の物語世界ではなく、テクストの方にあるべきだ。内容の正否も確認できない感想や批評には、有効性も妥当性もないのである。




