婚姻
中世西欧において、所帯を構えるということは一種の特権であった。そうした背景から、既婚者というのは同じ性別や身分、立場の独身者よりも上であるとみなされた。別の言い方をするならば、独身者というのは半人前であるとみなされたのである。身分や立場、経済的な理由などから一生独身で過ごすものも多くあり、それは農民などの社会的身分の低いもののみならず、市民や貴族にも同じことが言えたのである。それは家父長制の一族集団の内部秩序を保つとともに、核家族を基礎に置く中世の社会構造に由来するものであった。
婚姻の根本的な目的というのは、子どもをもうけることである。貴族や上層市民においては、その一族の存続のために嫡出子を求めるということは、血統の誇りともつながった重大な事柄である。また、中流以下の階級のものであってもそうした一族の存続という意識はまったくなかったわけではなかった。しかし、使用人ではない安価な労働力を確保するために子どもを得るという考え方の方が優位であったようである。
子どもをもうけることが結婚の第一義である以上、子どもの得られない女性は離縁されても仕方がないものとみなされていた。また、妊娠中の女性は法的にも社会的にも特別な保護を受けていた。中世における乳幼児の高い死亡率を考えれば出生率も高く維持している必要がある。そのため、現在と比べれば結婚生活のなかで妊娠や授乳の期間が長い。そうした期間こそが女性の一族のなかでの地位を決定づけるものであった。もちろん、女性にとって妊娠というのは一大事であり、産褥死も多かったようである。
家を重視しその社会的地位を守り向上させるためにも、個々の成員は社会規範に則り、地位と立場に相応しい立ち居振る舞いが求められた。当然、子どもたちが地位や立場にふさわしい相手と婚姻を結ぶように配慮がなされた。特に、家の地位よりも社会的に低い家とつながりをもつことは忌避され、すくなくとも同じ身分の家から配偶者を見つけようとした。地位や立場が同じような相手であれば、恋愛結婚も決してありえないことではなかったのだが、特に若いもの同士の婚姻においては家の希望の方に重点が置かれることは当然のことであった。
恋愛結婚も可能であったと述べたが、ゲルマン系の古典的な婚姻形態は両性の保護監督者の合意によってなされるものであり、当人たちの同意は必ずしも必要なものではなかった。特に、女性の売買のような婚姻形態と見受けられる記述も存在している。しかしながら、そうした売買が単なる物質的な取引を意味するものであるのか、相互の家のつながりを強めるための社会的な契約を意味するものであるのかはよくわかってはいない。少なくとも、女性は契約の目的物の一つと見なされ、当人の合意が法的な前提になっていなかったことは確かである。一方で、女性の保護監督責任のやり取りが生じない婚姻形式に対しては比較的ゆるやかであり、王族を含めた有力者層はそれを利用することで多くの女性を囲うということもあったようである。
中世に入り法体系が整理された後には、多くの法において女性当人を含めた関係者すべての合意が必要であり、女性に対する結婚の強要は必ずしも合法であるとは限らなくなる。しかしながら、法的には同意を求められていたとしても、実態として女性の同意がどのように扱われていたのかは、これもよくわかっていない。
ローマ法を支持した教会は保護監督者にかかわりなく、両性の合意を婚姻の決定的な要因としていたのであるが、一方で、双方の両親の意思に反して行われる婚姻を認めるものではなかった。また、教会の支持する婚姻の法的形式は女性の後見を親から夫へと委譲するというものである。ほかの法による、夫が妻の後見人とならない婚姻形式は、教会の否定する内縁関係に近いものであるとみなされ、そうした考えが浸透するに従い、この婚姻形式は非合法とされるに至った。当然、この形式の結婚による子どもは非嫡出子とされることとなる。
この考え方は家同士の合意に基づく婚姻形式に由来するものであるが、ゲルマン諸族は家同士のつながりによる婚姻の法的形式とそれ以外の婚姻の法的形式を別に扱っていた。複数の婚姻形式を利用することによって有力者層は複数の妻をもつことを可能にしていたのである。それに対し、教会は一夫一婦制を厳格に要求するものである。自らの認める婚姻形式以外を認めなかったため、婚姻を家族全体の問題からは解放しつつも、女性の保護監督責任のやり取りという法的形式が拡がっていくのである。
また、自らや自分の所属する一族が支配する不自由人やそれに近い身分の女性と関係をもち、婚姻に類似する関係を築くことがある。不自由人身分の女性が主人に逆らうことはまずできない。そのため、彼女らが主人と単なる内縁関係になり、また、それが解消されるということはよくあったことだと考えられる。彼女らが蓄妾として長く囲われることもあったようであるが、これが婚姻関係といえるものであるかというと難しいところである。
女性が不自由人身分の男性と通じることはその女性自身が不自由人身分にされるなど厳しいものだった。もちろん、自由人男性であっても他人の不自由人女性に手を出せば、つまるところ、比較的不自由人と近い自由人が性的関係を結べば、その自由人男性も不自由人に落とされることがあった。こうした厳罰規定は時代が下るとともに、徐々に緩和されていくのであるが、基本的な合意として、身分違いの性的関係によってできた子どもは常に低い身分のものとなるというものがある。基本的な合意とはいえ、こうした規定は領主との協議のなかで緩和されることもあった。
中世西欧における婚姻に対する社会的契約や法的形式というのは、現在のように文書主義的なものではない。文書として残らない以上、婚姻に至るまでの儀礼やそのほかの形式というのは現在と比べて非常に重要なものである。当然、それらを省略したり、放棄したりことが婚姻の正当性や有効性に対する嫌疑につながる。こうした儀式は時代や地域、あるいは身分や地位によって異なる。こうした形態や形式の名残は慣例として現在でも残っている。
家族同士で縁談がまとまると婚約が行われた。その際に持参金を含む金銭や物のやりとりについて取り決め、当人たちにも誓約が求められた。儀礼が重要であるため、これらの取決めを破ることや婚約そのものを破棄することは重大な違反として賠償金が求められるものであった。多く、当人たちがまだ子どもであるときに婚約は行われた。時代が下るにしたがって、子どもが長じた時に、その約束を反故にすることも可能となる。中世初期においては一族同士の関係の悪化が否めないものであったのだが、徐々に教会などの裁判所が婚約に関する訴訟を扱い、その仲立ちをするようになる。
実際の婚姻の儀礼は親戚や友人たちの前で公然と行われるものであった。男性は女性の家に女性を迎えに行き、自身の家へと連れて帰る。そこでつくられる行列はお披露目であると同時に、社会的な婚姻の証拠となるものでもある。後に都市部では、男性の家ではなく婚姻のために設けられた場所や市庁舎などの特別な場所で行われるようになる。法的形式として、女性の父親から夫になる男性に対して保護監督責任を移譲すると同時に、両家や両性の合意の宣言が行われた。
さて、婚礼が行われた後に、両者は初夜を迎える部屋に連れて行かれ、床入りの儀式を行った。これも法的形式である。そのため、公開のもとで新婚の寝台へと儀礼的な手順を踏んではいることになる。肉体的なつながりこそが法的拘束力の根拠となっていたのである。先に述べてあるように、金銭的あるいは物的なつながりも婚姻の法的根拠の一つとなっていた。
西欧中世初期において、キリスト教の教会は結婚に対して祝福を与えていた。また、インセストタブーなどに関する調査についても貴族や有力者とともにその任に当たっていくことになる。一方で、その祝福が法的根拠となり得るためには、キリスト教的な結婚観を内包する法の広まりとともに、その法の管理を教会が取り込むまでの歳月が必要となる。
公然と行われる婚姻には祝宴がつきものである。西欧中世において祝宴というのは重要な役割を果たしているものである。しかしながら、時代が下り、社会秩序が不安定な時代が訪れると、親の許可を得ずに内縁関係になるものが増えていくことになる。キリスト教教会は両性の合意による婚姻を支持していたのであるが、しかしながら、両親の了承を得ない婚姻に対しては否定的な立場を取った。それは、内縁関係では自らの保持する結婚を監督する権限を行使することができなかったからである。
初夜権についての裁判が行われたのも、こうした内縁関係の増加していた時期である。私的に無図バレル婚姻の増加というのは社会的な弊害へと発展していく。初夜権について、その権利をもつものが花嫁と実際に床を共にするものであるのか、それとも、初夜を見守ることで結婚の承認を行うものであるのかそのあたりはよくわからない。実態として、婚姻を行う女性の側に対して税を課したというだけのことであるとも考えられる。
王族や貴族のあいだで、年若い者どうし、ときには幼児の結婚さえ行われていたことは明白な事実である。市井においても、近代よりも結婚年齢が低かったと考えられており、一般に女性であれば十三、四歳になれば婚姻可能であったのではないかと言われる。有力者層のものほど資料が残っていないため、明確なことを述べることはできないものの、十五から二十歳程度が結婚適齢期と考えられていたと思われる。これは市民の女性に関するものであり、女性を貰い受けるという契約の性質上、その女性を養うための経済的基盤が男性の側に求められた。当然のことながら、男性の側の方が女性の側よりも結婚適齢期は遅くなり、子をもうけるという結婚の機能上、女性の方が年下ということはよくあることであったと考えられる。もちろんこれは都市部でのことであり、農村部やあるいは市民であっても下層民である場合については資料の欠落により明らかでない部分が多い。
離婚や死別によって寡夫や寡婦になったものはできるだけ早く再婚しようとする慣習が存在し、それによって年齢差の大きい婚姻も珍しくはなかったらしい。職人の親方などが亡くなった場合その寡婦は有力な若い職人と婚姻を結ぶことで、その職人に親方への道を開かせる力を持っていた。このように、一般に女性の方が年下が多いとはいえ、年上の花嫁であっても魅力があれば年下の男性が娶ることはあったようである。
奴隷の結婚に関して、中世初期には奴隷は結婚する権限そのものをもっていなかった。結婚に関する法自体が自由人を前提にしたものであったからである。しかしながら、主人の合意があり、形式に則っておこなわれたものであるならば、婚姻関係は認められていくことになる。それは、奴隷身分であっても主人の土地を耕せばそれが経済的基盤となり得たからである。婚姻を認める主人の側も、戦争による奴隷獲得が見込めない時代にあって、奴隷同士の婚姻は奴隷を確保する手段として有効であった。自身も不自由人を保持していた教会は、主人の了承について支持しながらも、不自由人の婚姻自体は積極的に認める方針を取った。主人の異なる不自由人同士の婚姻については、当事者の身分や主人相互の財産や子の帰属など法的な協議が必要となった。
農民たちの身分的差異は、中世において不自由人、半自由人、自由人の区別なく隷属的身分として平板化しながら定着していくのであるが、婚姻に関しては自由人とそれ以外では明確な差異があるようである。特に、結婚税、他の領主の不自由人と婚姻を結ぶ不自由人女性に対しては課税がなされた。




