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道聴塗説  作者: 静梓
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“side”について

※ 個人の意見です。

 “side”によって作中で視点を変更する手法がある。読者の好みというものはあろうし、各作品の内容や文体にもよるところはあるだろうが、この手法は批判の対象となることが多い。


 日本文学において、こうした視点が強く意識され取り入れられたのは近代以後、言文一致体が小説文体として一般化する明治中期から後期にかけてのことである。近代という合理性や客観性が重視される時代において、視点の合理的一貫性や語り手が誰でありなぜ語るかということが焦点化されたのである。“side”批判の根拠となるものとして、この視点の一貫性というものがあるだろう。


 言文一致体が一般化する前の和文体について考えてみると、『源氏物語』にあらわれる「うつり詞」の例があるように、視点の制約からは基本的に自由である。“side”どころか、一文のなかで視点が変わるということも多く見受けられる。ひとつの事象に対して、多くの心理や解釈を書き綴ることのできる自由さが和文体のひとつの特徴であるといっていい。


 また、『千夜一夜物語』のように入れ子構造をもった「枠組物語」では、“物語の中の物語の中の物語……”といったように視点が変更されていく。


 夏目漱石の『吾輩は猫である』に目を向けてみると、「猫」は読心術の心得があるという。一元視点という形式を崩さないままに、主人の心理を語るために必要な操作であったようである。視点の一貫性という観点からはその規範に則っているといってよいものの、「猫」に読心術の心得があるという手法はなかなかにアクロバティックであり、“side”の発想が根本的な部分にあった上での操作であるといえよう。


 視点を変更する手法としては同じく夏目漱石が『こゝろ』において、「私」の物語の中に「先生」の手紙を織り込むという手法を用いており、こうした手紙や日記、その他の文書を作中で紹介することによって別視点を織り込む手法は現在でも一般的である。


 視点を相対化し得る“side”の手法を効果的に使ったものとして芥川龍之介の『藪の中』がある。こちらは「猫」の読心術が視点の拡大を図ったのとは対照的に、視点を並列的に描くことでむしろ空白や矛盾が拡大するように企図されている。


 近代的な視点の一貫性という規範は、現在でもある程度の有効性をはらんでおり、であるからこそ、他人の視点を持ち込む上で手紙などを用いるといったような操作が必要となると考えられる。一方で、項、章、部によって視点が切り替わりながら話が進んでいくという物語も一般化しており、視点が必ずしも唯一でなければならないわけではない。




 ここまで“side”として一括りにして扱ってきたが、少し分類してみたい。まずは視点に関するものから以下の四つに分類する。


①一元一元視点

 人称にかかわりなく、一元視点から一元視点へと視点人物が切り替えられるもの。本編における視点となっている作中人物から他の作中人物へと視点が切り替わるものが“side”いわれてまず思い浮かぶだろう。


②一元全能(客観)視点

 人称に関わりなく、一元視点から全能視点へと視点人物が切り替えられるもの。本編では視点人物に寄り添う、あるいは視点人物自身が語り手となって話が展開しながらも、物語を俯瞰する視点からの語りへと切り替わる。例としては、項や章、部などのまとめや次の予告などを俯瞰的な視点で行うもの。


③全能(客観)一元視点

 全能(客観)視点から一元視点へと視点人物が切り替えられるもの。本編では物語を俯瞰する視点からの語りながら話を展開させながら、視点人物に寄り添う、あるいは視点人物自身が語り手となる視点からの語りへと切り替わる。三人称から三人称であれば全能視点のなかで焦点化しているだけのものである。


④全能(客観)全能(客観)視点

 全能(客観)視点から別の全能(客観)視点へと切り替えられるもの。基本的には作中作であり、少なくとも一方がもう一方の創作主体である場合などがこれに該当する。


 次に、視点によって描かれるもの対象によって以下の三つに分類する。


㋐事象1<視点α

 ひとつの事象に対して複数の視点が語るもの。『藪の中』などはこの型であり、“side”として批判を受けることの多い型でもある。


㋑事象α≦視点β

 複数の事象を複数の視点が語るもの。群像やそれに近い形式のものがここに該当する。


㋒事象α>視点1

 複数の事象を単一の視点が語るもの。語り手という一つの視点からさまざまな事象を描き出す全能(客観)視点はこれにあたる。視点ではなく焦点が切り替わる分類である。




 ①㋐型がなぜ批判を受けやすいのだろうか。『藪の中』のように視点による空白や矛盾を設けるといった読者を惹きつける構造を持たないがゆえという巧拙の問題なのだろうか。確かに、繰り返しの表現は読者の側に飽きを感じさせる部分があることはけっして否定できない。一方で、読者が読み飛ばすことを見越して、そこに重要な要素を潜ませるということは可能である。それもまた巧拙の範疇になるだろうか。ひとついえることは、文体や表現の巧拙というのではなく、それらが内容とどのように連関しているかということが問題となるという点である。


 ①㋐型の“side”、特に一人称のものにおいて、「最初から三人称で書けばいい」という意見も見受けられる。確かに全能視点というのは、一見自由に思えるのであるが、全能性をもった語り手というのは日本語ではある種の違和感をもって受け止められることが多い。場を全能視点によって俯瞰的に書くにしてもそれを貫くことは日本語においては困難であり、ある程度の焦点化を必要としている。平面化して語ることを受け入れてしまえば、それは批判している当の①㋐型の“side”と変わりないものとなってしまう。いずれにしても、技法の巧拙の範囲であるのだから、「最初から三人称で書けばいい」という手法に関する意見は必ずしも正しいとはいえない。


 日本においては表現面では技法やレトリックに着目し、物語内容については印象批評に偏りがちである。表現ではなく構造を手掛かりに内容を読み解き、あるいは、創作論でもよく言われているように物語文法をもとに物語内容を生かすための物語を構造化するということは必要であろう。


 この場では視点という点に着目したのであるが和文体において視点が必ずしも重要でなかったように、視点という概念を一律に適応して区分けしていくことは必ずしも重要なことではない。もちろん、限定的な視点の中から読者がさまざまな空白を読み取ることが小説を読むうえでのひとつの魅力である。制約に対するひとつの姿勢としての“side”などの手法があり、その手法の発展過程のなかで批判を受けやすい形式や内容が生まれ、それが一方で表現世界の拡充につながる部分があることも小説を読むことの妙である。それは「再考 彼らの小説は誰のもの?」の項で書き綴ったことでもある。

2015/04/19 00:30

誤字脱字修正。

視点の分類に㋒を追加。

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