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道聴塗説  作者: 静梓
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パロディ

※ 個人の意見です。

 書かれた小説の根源は作家ではなく言語世界であるという考えは以前に述べた。こうした考えが、より直接的な引用に対する視野を狭める可能性があることは否定できない。パロディやパスティーシュ、本歌取りのようなものであってすら、その原典も引用の産物であるとするならば、その根源探求は物理的な制約はあるにせよほぼ無限に横滑りしていかざるを得ないからである。


 こうして用いている日本語の書記言語も明確に引用によって成り立っていることは、以前仮名の項において説明してある。例えば、「あ」の字母が「安」だからといって、「ある」という単語の「あ」に対して「安」の意味を復活させ、また、「安」の用例探索をすることが、小説の根源探求になるかといえば、首をかしげざるを得ない。


 日本の文学作品に目を向けてみれば、仏教や儒教、キリスト教やマルクス主義を日本化させながら引用してきたことは明らかである。古典文学のように資料が限定されるが故に参照し得る文脈がある程度限定されることに比べると、近現代の小説は多様な文脈を参照し得るが故に、あらゆる文脈に照らし合わせながら引用の痕跡を探るというのはひどく難しい。あらゆる作品が先行作品のパロディであると断じるのは、言葉にするのは単純であるのだが解きほぐしていくことは骨の折れる作業である。


 文化の連続性を素朴に信じるのであれば、あらゆる現行文化は先行文化を相対化し続ける中で発展してきたと言ってよいかもしれない。その相対化はむやみやたらと行われるのではなく、ある程度の規範の内側で行われる。であれば、先行文化をひとまず所与のものとして考えることによって、現行文化の規範を確認することができる。パロディやパスティーシュ、本歌取りのようなものを視野の外に置くことは、そうした規範を確認する術を自ら切り捨てることに他ならない。


 パロディという語は滑稽さや揶揄を含んだ模倣という語感をはらんでおり、また、批判性を帯びた再話という側面もある。言ってしまえば、先行作品の権威性に頼った二番煎じであり、低俗なものという印象を与える。高尚なパロディとは、時代性や批評性といった側面が前面に押し出されている作品ということになろう。


 しかしながら、自由な表現が文化的あるいは社会的に認められない場合、新規作品の独創性はまさにパロディの中において保証されるものとなる。そういった場合でなくとも、作家を神聖視し、作品を聖典化するような力学が働く場合、そこから逸脱した表現を未熟と切り捨てられる。そうした環境では、時代性や批評性こそがパロディの目的であるのだから、批評において焦点化されるのは当然といえる。一方で、滑稽さや揶揄を含んだ模倣というのは必ずしもそれ自体が目的ではないことも、ここからは見えてくる。少なくともパロディは原典に対する一定の知識が必要となる場合が多く、安易に低俗と切り捨てることには多少難がある。つまり、時代や原典に対する批判性に重点をおいて分析するにせよ、その側面が見受けられないからといって、無価値であるとは限らないのである。


 一概にパロディといっても色々な種類がある。『源氏物語』や『吾輩は猫である』のような明確な原典の形式を保ちながら、作家や時代といったレンズによって屈折させるものはわかりやすいパロディの例であろう。他にも、例えば、「社畜」「ブラック企業」「ニート」などのような現実社会に根拠をもつものを風刺したり、単純化や誇張表現によって戯画化したようなものも一種のパロディといえる。また、「ハーレムモノ」「居候モノ」「召喚モノ」などのように形式化したものを相対化するものもまたパロディである。最後の例では、単純に引用するものと形式に対して差異を設けることで批判的に描くものではまた異なるパロディであるといえる。


 非常にわかりやすいパロディの例としては「○○ネタ」のようなものがある。現実社会に根拠をもつものも「時事ネタ」ということはできるかもしれない。一方で、他作品のセリフや表現を作中の状況に合わせてただ単純に引用するものは、オリジナルの内容に対する批評性や時代性をはらむものではなく、むしろ、そのセリフや表現そのもののもつユーモアを新規作品内に呼び込みつつ、それらを権威化する働きをもつ。俳句の季語であれば語句の組み合わせによってその意味すら拡充されうるものであるのだが、ネタレベルのパロディは単純に表現パターンを拡充するのみに留まることも多い。


 「ハーレムモノ」「居候モノ」「召喚モノ」などのように形式化した表現を単純に引用するモノや、キャラクターの属性、あるいはキャラクターそのものを原典から切り離す形で動かしていくファンフィクションも、ここでいうネタレベルのパロディに近い。これまで述べてきたように、ネタレベルのパロディであり、批評性が希薄であるからといって、単純に低俗なものだということはできない。むしろ、パターンの拡充によってもたらされるものやその根源にあるものを明らかにすることが、パロディ表現をより深める可能性もある。


 言うまでもないことであるが、パロディには著作者人格権の問題がつきまとう。日本においては同一性保持権の観点から、基本的に著作者の意に沿わぬパロディは認められない。

2015/04/11 23:30

>例えば、「あ」の字母が「亜」だからといって、「ある」という単語の「あ」に対して「亜」の意味を復活させ、また、「亜」の用例探索をすることが、小説の根源探求になるかといえば、首をかしげざるを得ない。

→ 「あ」の字母が「安」 に訂正。

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