批評的強度
※ 個人の意見です。
小説の批判や批評に対する反論として「それならお前が小説を書いてみろ」というものがある。単純に見れば、小説を書くためにはある程度小説が読めなければならない、少なくとも読むために必要な規則をある程度身に付けていなければならないが、小説を読むために小説が書ける必要はないという意味でひどく的外れである。
また、作家がある程度小説を読める人だからといって、必ずしも大作家が批評家としてすぐれているとは限らない。すぐれた批評家やあるいは編集者が作家となったとして、必ずしも成功するわけではないだろう。
もう一つ前提を付け加えるとするならば、反論をもらった感想が場当たり的かつ趣味の範疇を出ない雑談である限りにおいて、「それならお前が小説を書いてみろ」という反論は意味をなさない。思い付きを感想として言語化する以上、そうすることに何らかの価値をみとめていることは確かだろう。しかしながら、その価値判断が小説に優越するという考えではなく、ただ単に雑談に興じたいという考えに基づいているかぎり、「それならお前が小説を書いてみろ」という反論は冷水をかぶせるような無粋なものであると言わざるを得ない。
ただし、自らの価値判断が作家のそれよりも優越していると考える読者に対してはある程度の効果をもつことは否定できない。自身のもつものの見方や考え方に対して全く気を配ることなく、当然葛藤もないまま、ほとんど全く無根拠の批判や批評をなすものに対しては、「それならお前が小説を書いてみろ」という反論をなし得る。
読書経験を含めた文化的・社会的経験に基づく面白い、面白くないという判断基準を詳細に体系立てて語ることができるものは少ないだろう。文化的・社会的経験を常識や教養などと言い換えても良い。小説の受容という観点から、流行を根拠に持ち出すことはできるかもしれないが、流行を生み出した読者層にその読者が含まれているからといって、その集団を代弁することができるのか、という疑問が残る。もちろん、小説を評価するにあたって公平無私な視点などというものがあると考えるのは幻想であるし、小説を作品としてではなく消費としてみるのであれば、読者層の想定や統計といったものは有効である。
しかしながら、自分語りに等しい経験主義的な判断基準から出た理想の小説という架空のモデルが念頭にある読者も少なからず存在する。ほとんど無限に成長していく理想像と現実に存在する小説を比べるなどというのは結局のところ、「自分の考えの方が優れている」と言っているのと等しい。
評価の手段や目的を明確にし、その信頼性と妥当性を論理的に擁護することができないならば、他の評価と並べて個々の評価に対して評価を下すことはまずできない。理想の小説が読者のうちに確かに存在するのであれば、少なくとも、その理想的で対象となっている小説よりも優れているらしい小説を明快に示してもらわなければ、いかようにも述べることはできないのである。故にこそ、「それならお前が小説を書いてみろ」という反論が成立し得る。
初見の印象や経験主義的判断基準を用いた手法が全くの無価値であるとは思わない。特に、文学や小説、諸ジャンルを周辺領域と明確に区別して論じることができ、自らの立場を明快に答えることができるもののそれが、多分の示唆をはらむことは間違いない。また、そうしたものでなくとも、審美眼や感性などの価値観の一端を自ら理解する上で重要な記録となる。つまり、なぜ面白いと思ったか、どこに興味を惹かれたかということを突き詰めて考えることで、まともに視点すら定まらないような気分次第の評価から抜け出す一端を掴めるだろう。もちろん、作品を面白いと言われることは作家の動機付けにもつながろうし、異なる価値観からの視野は小説の思わぬ効果を見つけるにあたって重要であることもあろう。
繰り返しになるが、公平無私で先入観のない読みなどというものは存在しない。であればこそ、普遍的価値観などというものを小説に当てはめることはほとんど不可能であり、一定で絶対的な意味を小説に対して述べることはできない。感性以外の価値判断の根拠すらも、何かを普遍的な価値として不問に付さなければならないものでもある。だからといって、小説に対して何らかの批評や批判をするものが、自らの立ち位置に対して全くの無関心であって良いということにはなるまい。
なぜ小説を読み始めたのかだとか、どんな作品や作家が好みか、あるいは、どんな作品や作家は読んでこなかったかだとか、小説を読むときや評価するときにはどのような点にとくに着目しているかだとか、そういった自分と小説との付き合い方くらいは少し考えてもいいのではないか。
国語科の三読法において、批評や批判といったものは、通読、精読、味読の後に来るものである。もちろん、この四段階は明確な段階性を帯びているものではなく、それぞれの段階を行き来しながら行われるものである。それでも、初見の通読によって全体的な印象を得、それをもとにした表面的な理解による批評性と、深く読むことによって生まれる批評性では異なる部分も多いだろう。
初見の通読ならば、流し読み程度でも良い。できれば疑問点や感想を書いてみる。次いで、精読していくならば、ただ文字を追うことに終始せず、カギとなる言葉や気になるフレーズなどをメモする。そこから、文章を見ずに思い返し、梗概を作成してみたり、通読したときに浮かび上がった疑問は解決したか、感想で変わったことがなかったかを書き出してみる。目に見える形に残すことが重要である。翌日にどんな内容だったか、どんな疑問があったかを振り返る。それらを繰り返し、鑑賞やら批評やらに移っていく。国語科の授業で繰り返し行われてきた勉強法である。
当然、精読即批評ではない。批評的強度を保証するのはその根拠である。明快な前提と明確な手段と目的は、批評にとっての武器となる。その武器を振るう土台としての精読である。




