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道聴塗説  作者: 静梓
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部族

 部族という概念がある。同一の言語や類似した習慣や制度などの文化を有する集団であると見られる場合に、その集団はひとつの部族としてまとめられる。もちろん、こうした区分には問題がないではない。


 一つの例として、日本統治下の台湾があげられる。当時の台湾にはそれぞれのことばすら相互に理解できないような諸部族が暮らしていたらしい。漢民族をはじめとした中国系の諸民族はともかくとして、南洋系と思われる諸民族を統治下におくにあたり、諸民族を類似する特徴から数派に分けることでそれぞれをひとつの部族ということにした。現在でもこの分類は影響力を完全には失っていない。当然のことながら、この分類と当該集団の自己意識は一致しておらず、問題になっている。自己意識や共属意識、対立意識と分割する側としての統治の問題は、ひとまずおいておこう。


 上記のように、部族を区別するものの一つとして言語があげられる。もちろん、言語の類似性や共通性のみをもって部族を区別することはできないが、少なくとも言語の共通性はある種の連帯感をはらむものであるし、言語の相違は互いの距離感を産むものでもある。部族の例としては適切ではないが、ドイツの極右勢力が移民の関係において、言語を取り上げている。


 日本においても、沖縄の地域言語の保護が話題になっている。日本語における一方言とみるか部族語とみるかはここではあまり問題にならない。日本という国が単一民族国家ではないということは言うまでもないことであるが、ほとんど集落単位で用いられている言語が異なるという現象は、単純に言語学のみならず歴史という観点からも重要な視点を与えてくれる。


 さて、部族内部の紐帯として重要なモノのひとつに血縁があげられる。日本神話や伝承などを紐解けば、一族の成員すべてが神や偉人などの共通の始祖をもつという場合は数多い。そうした観念は純粋な血統という理念を生み出すものである。外部から与えられる枠組みが孕む問題のひとつはこのあたりにあろう。部族内部の紐帯として血縁が用いられる以上、血統の多様性よりも純粋性の方が重んじられるのは当然のことである。


 言うまでもないことであるが、そうした理念としての純血と実際の血統の純粋性とは必ずしも一致しない。諸部族は個々の構成要素が離合集散しながら徐々に形成されていったものである。一方で、部族の成員すべてが血縁関係であるという意識は、部族内部を組織化し、秩序立てる重要な要素である。自己を規定し、また、共同体を維持するにあたって、その根幹をなす要素である純血思想は、実際の起源を求めるよりもはるかに重要なことであったのである。


 内部の血縁関係の強固さと出自の共通性を保つものとして通婚がある。こうした風習・制度は部族内部の均一性を保ちながらも共同体自体を閉じたモノとするものである。一般部族民がこうしてほかの部族への対抗意識を強める一方で、有力者層においては政治的な理由によってほかの部族と婚姻を結ぶことはよくあったことだと考えられている。


 有力者層は外部との血縁をもつ役割をもつと同時に歴史認識の保存者であった。起源や系譜を示す神話や伝説、物語といったものを保存する役割をも担った有力者層であればこそ、主として政治的な理由によって混血を進めながらも、実際の起源を曲解しえたのではないかと考えられる。神話や伝説の中には征服やそれにともなう混血を示唆するものもあり、また、複数の起源に対し単一の始祖をその上に設けたように思えるものもあるのだから、神話自体が部族の形成過程を多少なりとも示すものであると言って良いのかもしれない。


 ヤマト‐アイヌという対立軸で見ると分かりにくいのだが、日本史において登場する対アイヌ政策というものは、近代以前に限って言えばアイヌの口承文学には残っていないことも多い。日本の歴史という観点から見れば北方諸民族は一まとめにして扱われうるものであるのだが、その内にいくつもの部族があることは想像に難くない。無論、伝承に残っていない理由を部族にのみ求めることは難しく、単純に重要度が低いという可能性はある。


 同一の部族内にあっても歴史認識及びそれにともなう血統意識といったものに階層によっておそらくはムラがあるように、衣食住をはじめとした慣習や風習といった文化面にも差異があったと考えて良いだろう。階層という社会秩序を維持するうえで階層によって固有の標識、つまり、ステータスシンボルといったものは重要である。そういったものは階層などの縦の差異を示すのみならず、部族間の差異を示すものでもあっただろう。一方で、言語と同様に複数の部族が共通の文化を有するというのは珍しくない。


 過度に一般化して論じたが、以上のように、虚構性を帯びた血統共同体であるという意識のもとに、言語や風習などのゆるやかな共同体意識が部族には存在する。それでは現実として共同体を成立させるものは何かというと、政治や法などの社会的諸制度である。


 自由主義的な共同体ではなく、明確な階層社会が形成されている部族において、法規範はほぼ間違いなく階層によって異なる。一方で、内部の秩序を共同で維持するという意識は構成員を結びつけるものであると同時に、独自の法体系をもつことそのものが部族の自立性を示すものでもある。古代西欧において根付いたそうした意識は、中世における法体系の複雑さとして残りながらも、徐々に薄れていくこととなる。


 再び古代西欧のゲルマン諸部族の例をとれば、部族の政治と司法を司っていたのは自由人男子の集会である民会である。ゲルマン人の部族国家において王の権力は限定されていた。もちろん、部族の置かれた状況に応じるかたちで王の実権は左右されるものであるが、少なくとも専制的な支配をすることはできず、部族内の秩序を乱せば罰を受けないわけにはいかないものであった。部族の秩序の維持という意味での統率と部族民の代表者という意味合いが強いものであったと見て良い。一方で、部族民の代表である以上、独自の法体系の維持と同様に王や王家が部族の自立性の象徴でもあるのだから、その象徴の喪失が部族に与える影響は大きかったと考えられる。


 部族集会としての民会は戦争や法改正を含めた政治的決定や重要な係争の解決を行う場である。基本的には年に一度程度定期的に行われるものであり、必要に応じて招集されることもあったようである。また、民会は今でいう成人式あるいは立志式のようなものであり、自由人男子に対して武装を付与するなどの共同体に受け入れる儀式を行う場でもあった。さらには、部族領域の諸地域における裁判権を有する者を選出するのも民会であった。


 部族領域が狭いが故に諸地域から自由人男子の参加する民会を開けたのであるが、裁判権を行使するものが選出されていることから分かるように、領主制的な要素も存在する。また、王をもたない部族のなかには家門や門閥の代表者や貴族からなる代議制的部族集会を行っているものもある。部族領域の拡大などによってこうした要素が強化されるとともに、社会階層の分化が進むことによって、部族集会は徐々に意味を失い、代議制的側面の強い会議や軍の査問などに役割を交代していくこととなる。例外的に臨時集会が行われることはあったようであるが、立法や司法に関わるものではなく、部族の政治的立ち位置を決定するものであった。

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