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道聴塗説  作者: 静梓
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再考 彼らの小説は誰のもの?

 “小説”とは何か、という問いを難しくさせているもののひとつは、“小説”が間違いなく既存の枠組みに立脚していながらも、その一方でその枠組みにすら視線を向け、ときにはそれを解体しようとするものであることだ。それはさながら、ブロックを抜き取りながら上へと積み重ねていく類のブロックゲームのようなものである。


 “小説”がその枠組みの内側でつねに生成されるのであれば、その枠組みそのものを指して“小説”としてしまえばいい。そうではないからこそ、その枠組みのみならず“小説”ということばすら現実に存在しているものを指し示し得るものなのかすら確かなものではなくなっている。


 そうであるならば、多様なメディアで読む“小説”とは、その場で読んでいる作品それ自体ではなく、「既存の枠組みに立脚していながらも、その一方でその枠組みにすら視線を向け、ときにはそれを解体しようとするもの」としての“小説”である。ブロックゲームの譬えを用いるならば、作家はブロックを抜き取り、上に重ねることを幾度か繰り返した時点で写真に撮り、発表するようなものであり、読者はその造形のみを受け取りながらも、そのゲームの過程すらも“小説”として受け取らなければならない。


 つまり“小説”とは、作家が描き出す作品そのもののみではなく、また、作家が既存の枠組みの中から導き出した「“小説”とは何か」に対する解答をも内包するものでもなく、作家がいかに既存の枠組みの中から問いを導き出し、いかに解答を得ようとしているのかという過程そのものすらも内包するものと捉えなければならない。


 「既存の枠組み」はその背景にあるように見える膨大な作品群によって、“小説”の在り方を強烈に規定する。「“小説”とは何か」という問いに対する解答はつねに、既存の「“小説”の在り方」から離れることによってのみ浮上する。故に、「“小説”とは何か」という問いは、“小説”の本質やそれが本当に存在するのかという問題は一時棚上げしつつ、“小説”から離れることによって“小説”そのものを相対化し、「既存の枠組み」を白紙化することによって、「“小説”」ということばがその視野から外したものを取り戻そうとする働きによってのみ焦点を結ぶこととなる。


 そもそも、幾度か述べているようにことばとは社会性を帯びたものである。歴史や文化、その他もろもろの文脈を自ずから保持し続けている。よって、元来作家その人からすら自由であるはずの物語世界は、作家に言語化されることにより、言語が保持する言わば言語世界の強烈な規制を受ける。


 “小説”の「既存の枠組み」は言語世界と物語世界の狭間に、“小説”世界を挟み込むものである。日本語において、自他という話者と聴者の関係、公私という場、性差や社会的地位、時代、性格などの話者の属性などは発話のコード選択において非常に重要だ。“小説”世界において、日常的に機能しているかどうかを度外視したところで、コードは人物像、あるいは「属性」を規定する。例えば、「わしが……じゃ」などのような典型的・様式的な話し方をする老人というのは、もともとそういった方言を使う地域以外ではめったにいないだろう。文章表現においても、ロリババアや老人に育てられて古風な言い回しをする少年などのズラしはあるが、それもコードを利用していることには変わりはなく、また、ロリババアのように再様式化にいたる場合も見られる。


 コード選択はコミュニケーションを円滑に行う上で重要な役割を果たすものでもあるのだが、それを類型化し強調した形で人物像やその容姿に至るまで規定し得るのは日本語の小説において顕著である。それが日本語から他言語、他言語から日本語双方の翻訳文学の混乱を一部で招いているのだが、それはさておき。こうしたコードを利用しない“小説”、つまり、登場人物の発言すら書きことばで記す試みというのは、近代以後無数に存在している。「既存の枠組み」を相対化するというのは、結局のところ、それ自体が再様式化するものでしかなく、白紙化することは難しい。


 問題となるのは、“小説”とはコミュニケーションであるのか、という点である。ある観点から見れば、“小説”は作家から読者への、あるいは物語世界から読者へのメッセージであるということはできよう。一方で、読者が見出す作者像は“小説”を通して浮かび上がる虚像であって、生身の作家とはズレたものであるというのは既に述べてある。物語世界はもとより作家すら言語世界に従属しているのであって、言語世界をその支配下に置くことはもとより不可能である。つまり、作家や物語世界が発するメッセージは言語世界のノイズの中で解体され、読者のもとで再構築されたときには既に別物になっている。


 “小説”の発話主体は作家であるかのようにふるまいながらも、その実、作家・作品・読者という“小説”を織り成す全ての要素を包み込む言語世界そのものである。語、句、節、文、文章はすべて、その中核に特定の観念や指示対象を有しているわけではない。適切な表現を的確に判断し、絞り込ませる言語感覚=言語世界があるのみである。ここでの「適切」「的確」という語は適切ではなく、的確な判断とは言いがたいものだ。なぜならば、語、句、節、文、文章の選択を適切であると感じさせる作家及び読者の先入観こそが、言語世界のノイズとなっているだから。故にこそ、「“小説”とは何か」という問いに対する応えは、言語世界のノイズを透過した反響音の中にのみ存在しているといえる。


 媒介者たる作家は、言語世界に誠実であることによってのみ、言語世界のノイズを減衰させ得、一方で、その試み自体がノイズとなった途端にそれを放棄せざるを得なくなる。読者にとっては、作家の誠実さを拠所にしながらも、物語世界や作家を“小説”のうちから再構築するのではなく、むしろ、作家が言語世界が内包する文脈や“小説”世界が内包するコードによって描いたモザイクを自らも描いて見せることによってのみ、「“小説”とは何か」という問いを発し、その残響に耳を傾けることができるようになるのである。読者はすでに“小説”として切り取られた断片から物語世界を再び立ち上がらせることはできない。“読む”という行為は、作家が構想した物語世界をその権威性の下に読者が丁寧に再現するものでもなければ、読者各々が作家の権威を拒絶することでそれぞれ異なった形で産み出した自由な物語世界に新たなる権威を与えるものでもない。“小説”を“読む”ということは、作家が描いて見せたモザイク、つまり、作家が言語世界や“小説”世界のもつ想像力(文脈やコード)をいかに相対化し、かつまた、いかに同化してしまっているのかを明らかにする行為である。それはまた読者の支配されている言語世界や“小説”世界のもつ想像力(文脈やコード)を明らかにする=モザイクを描く行為でもある。


 朗読や演劇、特に演劇のようなものは、一方ではそれ自体が積極的な物語世界の再現のようでありながら、他方では、演者も聴者も作品が虚構であることに自覚的であるが故に、場のもつ想像力や虚構性を立ち上げるものでもある。ある種の戯画的な発話を支える想像力との出会いこそが、虚構との出会いであり、かつまた、それは日常の発話を支える虚構性との出会いである。“小説”を含む虚構という体験が有する他者とは、つまり、虚構そのものでも自己でもなく、それらが内包する先入観の一端であろう。


 繰り返しになるが、作家に許されているのは、言語世界からの引用のみである。正確には、言語世界の内包する多様な文脈を構成する言語活動を引用することしかできない。作家は語を引用し、語を支える文脈を引用し、文脈を支える文化的・社会的要素を引用し、並べ立てるのである。


 読者はその引用の羅列からその背後にある言語活動を追跡することとなる。単なる引用の羅列は“小説”自体が想定する読者の虚像において引用の集合として有機的に結びつき、かつまた、その読者によって背後にある文脈が解体されることによってその不均衡が浮き彫りにされる。作家自身を含めた生身の読者がなし得るのは、その言語体験に基づく偏りやムラのある読書でしかない。作家に「既存の枠組み」の白紙化が不可能であるように、「生身の読者」もまた言語世界の支配下にある以上、「“小説”自体が想定する読者」にぴったり重なるということは不可能である。


 勝手気ままにふるまう世界を、人は認識の下に統合する。全くのリアルの世界からノイズを取り除いた認識の世界でしか人は生きられない。ヴァーチャルな世界に生きているからこそ物語世界と接続し得るわけである。「“小説”自体が想定する読者」とは「全くのリアルの世界」はおろか、ありえたかもしれない世界すらも認識しているという超越的存在に等しい。“自我”を捨て去った悟りの類である。であるからこそ、現実に存在する作家も現実に存在する読者も、目指す限り遠ざかり続ける超越的存在の簒奪を目論むのである。


 引用という性質を作家のみに認めるのであれば、読者はモザイクを生産しえず、ただやみくもに作品に対して自己を投影し続けることとなる。こうした消費者としての読者は自己同定、自己肯定のループに突入せざるを得ない。言うまでもなくそうした読みの側面は、文脈を分析し、あるいは内容や表現を味わい、作品の価値に関する考えを深める上で重要な視点を提供し得る。ただし、それのみを行うことが自己の鏡像との対話にしかなり得ないことはこれまでに示してある。


 「“小説”とは何か」という問いに対して、示される道筋もまた“小説”である。手段を遂行するたびに問いが自己増殖するという矛盾。その矛盾は自身が認識しているはずの世界と言語世界のかすかなズレを立ち上げるはずだ。自分が曲がりなりにも支配しているはずの世界と自分が支配されている世界の狭間で揺れ動く地平線に対して一歩でも踏み出してしまえば、連鎖反応的に次の一歩を踏み出さざるを得ない。例えば、“小説”世界における性差と個人的世界における性差のズレを追求しようとすれば、単純に記号的で戯画的な性差の振る舞いのみならず、その記号性戯画性を保証する文脈をも追及せざるを得ない。すなわち、言語世界に対する問いかけである。


 “小説”に接する以上、作家も読者も同じ地平を見つめるある同じ地点に立つ。「“小説”とは何か」という問いは、結果として“小説”世界はおろか、言語世界すらもその射程に含めてしまう。個人的世界と言語世界の無限の往還のなかで自己増殖を続ける「“小説”とは何か」という問い、一つ乗り越えれば再度立ち上がる「“小説”とは何か」という無限の問いかけこそが、“小説”を自己の投影のループから脱する手段であり、かつまた、もう一つのループである。

ご覧いただきありがとうございます。


本項は書いている最中に、自分でも混乱し始めました。

読んでいると、もっと分かりにくいと思います。

決定稿とは言いがたいものですので、以後修正していきたいと思います。

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