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道聴塗説  作者: 静梓
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属性について少し

※ 個人の意見です。

 属性というのは他者がその人をどこに帰属させるかというものである。


 例えば、「冗談をよく言う」人に対して「面白い人」という属性を付与するとする。それはその属性を付与する人が「冗談をよく言う」人を自らの文脈の中にどう位置付けるかということだ。つまり、その人の中にある「面白い人」の集団の中に「冗談をよく言う」人を帰属させるのである。もちろん、同じ人を評価する場合でも人によっては「寒い人」だとか「下品」だとかいった集団に帰属させるかもしれない。それは同時に自らの設けた枠の中に他者を押し込む行為でもある。


 そうした属性というものは性格や人柄に限ったものではない。それはまた日本人だとか性別だとかいったものも一つの属性である。


 属性を付与する側の中にある属性集団も個別の人物から成り立っている以上、卵が先か鶏が先かのたとえのような状態にある。個別の人物が存在するから属性が生まれるのか、はたまた、属性があるから個別の人物をそこに帰属させられるのか、といった状態である。感情移入のところで述べたように、感性や感情というのは世代をこえて伝達されうるものである。しかし、ある人のもつ属性意識が親や兄弟などから受け継いだものであったとしても、その根源を辿ろうとすれば、いずれどちらが先であったのかわからない状態に陥るであろう。


 また、もう一つの循環の構造がある。例えば性別であるが、人は特定の性別をもって生まれてくるわけではなく、身体的特徴などから性別という属性を他者から付与され、社会から法的にも付与される。そうした付与された性別に付随する行動規範を、性別を付与された側がなぞることによって、属性が再生産される。


 小説内における登場人物についても同じことが言える。小説内で記述される登場人物の行動や発言、あるいは、その容姿に対する描写などから“読者が”属性を付与するのである。読者がその登場人物についての記述に接するとき、自らの文脈に置き直し、そこに存在している他作品の登場人物などを参照可能なようにタグ付けするのである。


 それは一方では、小説内に存在する空所を読者が補充することによって、小説そのものの安定性を保証し得るものである。あるいは、小説を読むことそれ自体がそうした行為の連続であると言える。しかし、また一方では、属性が本質化しうる危うさも有している。つまり、その登場人物が“どのような”キャラであるかというタグが、その後のその登場人物の行動や発言の理由として引用されかねないのである。


 属性が属性であるうちには、その登場人物のものの見方や考え方、あるいは行動を読者の文脈の中で慣例的に呼び表すものであるに過ぎない。しかし、一度属性が本質化すると、その登場人物はそうした振る舞い方を“しなければならない”という規範に縛られる。


 登場人物の首尾一貫性というものともまた違う。属性が小説内の記述から定められる以上、つまり属性が登場人物の行動などの要約に過ぎない以上、付与される属性は変化し得る柔軟なものである。作中の出来事による登場人物の行動指針の変化や別の側面の強化・強調、あるいは、読者の側の読書経験によってすらも、その登場人物のタグは容易に付け替えることができる。その付け替えが作中の出来事によって頻繁に起こる、あるいは、同一の側面を変質させる出来事が作中で確認できないにもかかわらずタグを付け替えざるを得ない場面が多いときには、登場人物の首尾一貫性を疑わなければならない。ストーリーの構成に関与するものなのか、作者の技量の問題なのか、そうした視点が差し挟まれることとなるだろう。


 本質化というのはタグを固定し、付け替えを拒絶する。本質は本質であるが故に、読者の視線というフィルターによって濾過可能なものではなく、登場人物の内部に溶け込んでいるものである。そうした溶け込んだ性質が作者によって与えられるのであれば、それを読者が受け入れるかどうかはともかくとして、その登場人物の本質であるということはできよう。どのような出来事にも動じない頑迷な人物や、あるいは感化されない他者不信感の強い人物など、ユニークな存在として描きうるかもしれない。その本質がそもそも読者の側から与えられているのであれば、プロットや解釈の自由を超えた部分で小説の構造を不安定に見せかねない。


 パロディであれば属性の本質化、あるいは属性の過度な強調はユーモアとして働きうる。ものまね芸における“いかに似ているか”よりも“いかに本物らしいか”ないし“本物より本物らしく見える”過剰な模倣が、本人と並んだ時の違和感を内包しながらも可笑しさを与えるようなものである。


 オンライン小説は部分的にではあるがファンフィクションの系譜であるということは既に述べてある。パロディがパロディとして機能し得るのは、その前提となる大元が文脈として共有されているからだ。小説が文脈を押し付ける側面を持っているとはいえ、その読書経験に裏打ちされた属性は常に共有し得るものではない。


 属性は主観的にはその背景となる具体的なキャラクター集団に直結していながらも、客観的には抽象的で単純なことばに過ぎず、登場人物がいかに行動するかということを他者に説明するには向かない。属性は読者個人がその登場人物のものの見方や考え方、あるいは行動を理解するための慣例的なタグであって、ものの見方や考え方、あるいは行動そのものを記述するものではない。属性から捨象された登場人物の言動や思想、あるいは、その人が持っている文脈を理解することはほぼ不可能と言っていい。


 属性を直接記述するな、などとは言えない。ただ、読者にせよ作者にせよ属性に依存しすぎることに関しては疑問を抱くべきではなかろうか、と思うのである。

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