あうんの呼吸が求められる読者と作者
※ 個人の意見です。
いうまでもないことであるが、教育というのは教育内容とともに、教育の形式をも教えるものである。教育の形式というのは、学び方や教え方、あるいは教育内容を支えるなどの文脈暗黙の了解のことである。教育の効用というのは、知識や技術などの技能のみならず、ものの見方や考え方といった価値観やそれらを背景とした言動をも射程に含むものである。ここでいう教育とは学校教育のみならず家庭教育を含めた学校外の教育をも含んでいる。
わかりやすいのは信仰であろう。宗教的な諸々の形式を学ぶことは、その背景にある文化的・社会的文脈をも学ぶということである。宗教的作法などを学ぶ場合、その作法の出所や歴史的背景などが前景化されることは多くないだろうが、その場以外でのものの見方や感じ方、あるいは振る舞いに影響を与えることは間違いない。異文化交流の面白さと難しさはこうした言語化されない文脈を前景化し、可視化することが求められる点である。
子どもに対する教育というのは、文脈を完全に共有できていないという点で、異文化交流に近いものである。時には、普段は前景化しない教育の形式すらも前景化しなければならないこともあるだろう。「なぜわからないかわからない」という状態は、それ以前の学習内容を含む、文脈が理解できていない状態であるかもしれない。
言い換えるならば、幼少期に社会的・文化的文脈を多く手に入れている方が、長じてからの学習は容易になるのである。名門というのは、社会的に有利な価値観や行動などを生産する規範システムを保有しているからこそ名門と言いうるのかもしれない。社会的・文化的文脈を多く手に入れられない環境であったことを理由に自他に現在の優劣を投げかける、などというリクツを援護する気はさらさらない。背景となるシステムを前景化し、可視化することが技術であり学問である。
学校という場は異なる文脈を保有した人々が集まる場である。学習内容を支える文脈を共有しきれていないのであれば、共有できるようにしなければそもそも教育-学習が成り立たない。教育は文脈の確認と内容を往復するカタチで進められる。復習と発展と言い換えてもいいが、文脈の確認には単語や文法などの言語分野のものやその他の社会的・文化的文脈のものをも内包している。つまり、学校教育は“知らないこと”を前提とした情報の提示は得手である。
例えば、古文教材のほとんど全ては活字である。それを古語辞典や文法書を手掛かりにしながら読解する。某の自筆本のくずし字から読解せよ、などとはまず言われない。自筆本では読めないことを前提に、複数の字母を持つ字で構成されていた仮名を現代のそれぞれ単一の字母から構成される五十音表に沿って置き換え、歴史的仮名遣いを用いながら活字化されている。そうして歴史的仮名遣いや文法、その他成立背景などの文脈を共有したうえで、つまり、そうしたものを“知らないこと”から“知っていること”に変化させることで内容へと入っていく。
特定の文脈にはぐくまれたものが、そこで培われた感性によって、その文脈を共有する仲間内だけで通用することばを用いる教育などはエリート主義的に過ぎる。もっとも、社会がそれを要求しないわけではないし、中には一読して量子物理学の教科書を皆がみな理解できるものとして話しかけてくるものもあるかもしれない。
本題の方が短くなりそうだが、本題に移ろう。
小説や一部エッセイなどは、ここでエリート主義的といったことばで構成されているともとれる。SFの中には、読者に自然科学的知識があるものとして話が進んでいくものがある。知らないもののためにあらかじめ説明を加えることはないし、だからこそ、ご都合主義的に作られたその場限りの“科学”と物語の外側で保証される科学を作中で同列に扱うことができる。
ものすごく大きな枠からいえば、日本語で書かれた小説が日本語そのものが内包するものの見方や考え方をあらかじめ提示することなどはない。翻訳文学であれば、訳者が注釈などをうつことで作品と読者の文脈を共有させようとする教師の役割を果たすかもしれないが、それは小説そのものが内包するものではない。古文や戦前の小説なども同様であり、いちいち書かれた時代状況などを作中に織り込むなどしないことの方が多いであろう。
もちろん、優しい作者であれば、自作の重要語などを読者が知らないものとして注釈を付すかもしれない。造語などは「それは何だ?」と読者に思わせ、ここぞというときにネタばらしをするといった構成でない限りは多少なりとも説明となる箇所が必要となろう。とはいえ、“そういうものがあるのだ”ということを前提に話が進んでいくことに変わりはない。
以前に作品を通して見える作者は生活臭が取り除かれた清らかな存在であるということは述べてある。ここで浮かび上がるのは、作者が作品を通して見ている読者像である。当然、作者から見える読者というものも、便所で読んだり、飯を食べながら読んだり、布団の中で読んだりなどといった生活臭はおそらく取り除かれている。
作者が想定する読者というものは少なくとも作品を読むために必要な物事を“知っていること”になっている。言い換えれば、作品は“知らないこと”は想定されていないし、知識がない者は読むことを期待されていない。作品が読者に対して開いている門戸というものは、作品のもつ文体、つまり作者の意識的無意識的な読者想定によって限られているものである。自らの作品に解釈を付すというのは、あらかじめある門戸の横の方に予備の門戸を付けることで疑似的に門戸を広げているようなものである。
エリート主義的などと述べたから、作者のこうした考え方は傲慢のように思えるかもしれない。読者が作品を読み、作品を批判し、またその批判に対する回答を作品に見出すなどといった理想的な対話関係が作品と読者の間に形成されればよいが、必ずしもそういった理想的な読者ばかりではない。ただし、読者の側が作者に対して傲慢さを見出すときの読者自体も、作品が瞬時に理解可能であるだけの文脈のみを内包していると考えているのであり、それもまたひとつの傲慢さである。
現代においてファンタジーを語るときに、わざわざシェヘラザードのような語り手を用意することで外側の枠を形成する必要はない。日本でいうならば「けり」を用いて間接過去にせずとも、直接物語をすることができる。むしろ「けり」などなくても物語として読んでしまうのだから、わざわざそこに着目して読んだりはしないかもしれない。
古文を持ってくるのは大げさであるが、場が変化すれば文脈も変化する。作者であれ読者であれ、どのような文脈の中に自身が置かれているか、あるいは、自身が持っている文脈を作品を通して見つめてみることがあっても良いだろう。