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道聴塗説  作者: 静梓
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オンライン小説についてほんの少し2 あるいは、ネット小説について

※ 個人の意見です。

 オンライン小説についての項において、日本人は均質化しながらも細部で多様化していると述べた。日本全国の多くの土地で同じテレビ番組について話ができ、同じニュースを話題にすることができ、さらにいえば同じ雑誌についての話ができるという点において、日本人は均質化していると言って良いだろう。ネットというツールがそれを助長している節がある。


 細部で多様化しているというのもおそらく事実であろう。テレビのチャンネル数はともかく、新聞を隅から隅まで一字一句逃さぬように読むという人はおそらく少ないであろうし、興味をひくような記事のみを詳細に読むだろう。テレビ局や番組、新聞社によってニュースの捉え方も異なることはあるだろう。ネットニュースであればなおさら興味をひくようなニュースしか読まない。


 マスメディアから得た情報の深化を図ろうとするとき、ネットを頼る限りにおいて、その検索結果の上位に来るものは、より多くの人の目に留まっているはずのものである。その情報源もまたマスメディアとネットという場合もあるため、実質的な情報の深化に至らないこともある。


 紙媒体に頼れなどという気はさらさらない。電子辞書にも百科事典が入っている時代である。時間をかければ情報の密度は多少なりとも変わるであろう。ウィキペディアなどでも言語を切り替えるだけで情報量がまるで変わるということはある。


 言説ということばを紹介したことがあったが、人間というものは言説から逃れることは非常に困難である。暗号に対応するコードを持っていない限りは、その暗号を解き明かすことはできない。ある集団の中でことばを発したとしても、解読コードが共有されていなければ意味の通らない音の羅列にしかならないし、そもそもそのことばを発することすら困難かもしれない。思考によってことばが制限されているといえるし、ことばによって思考が制限されているともとれる。


 ひとつ例をあげると、日本の仏教の諸宗派は世界で多数派の仏教宗派とはまるで異なる体系である。日本に仏教があるのかなどと言い始めると限りがないが、ひとつ言えるのは、日本の仏教のコードで世界で多数派の仏教宗派を解するのは非常に困難である。逆に、世界で多数派の仏教宗派のコードでは日本の仏教は理解できないであろう。


 ウィキペディアの例をあげたのは、ワンクリックでコードを切り替え得る例としてである。言語体系をごっそり入れ替えられるという点で言語を変えるというのは有効であるかもしれない。知らないから理解できないというのではなく、理解できないから知ることができないように見える点で、コードがないという状態は非常に厄介である。


 ひとつの集団のコードに頼り切りという状態はとても楽である。もちろん、人はいろいろな集団に属しているのだから、ひとつのコードということは幼少期を除けば少ない。一方で、隣接する集団のコードを持たないという状態は、相手を理解できず、また、理解する必要がないという点で困難さを回避することが可能となる。つまり「自分が理解できない」のではなく、「相手が間違っている」ということにできるのである。


 感情移入の項で述べたように読書=ことばの受容は自己を再生産し続ける閉じた回路になりかねないという側面をもつ。コードの共有は他者との連帯のように振る舞いながらも、実際には他者は自己肯定する回路に過ぎない場合がある。自己表現のことばが見つからないという意味で“なんとなく”を表現するためにひとつのコードに頼るという状態においては、コードを共有する集団に対する否定が自己の否定につながりかねない。言い換えれば、集団に没入しているかぎりはことばによって自己が肯定され続けるように感じてしまう。


 飲み会の愚痴の無限ループのようにそれそのものを目的としている場合や、小中学生のように会話において有効な反論ができない段階を除けば、情報の深化が行われないままに同じ話題を繰り返している状態は、人の入れ代わりがあるにせよ、自己肯定の場でしかない可能性がある。


 当然、自己が肯定されるというのは快楽である。無反応であるよりは首肯されながら話を聞かれる方が気持ちは良い。ただし、均質性や同質性に快楽を見出し始めると厄介であるということは認識しておいた方が良い。




 長くなったが、本題に入ろう。


 オンライン小説について以前述べたが、それとは少し区別する形でネット小説について述べよう。この区別にあまり大きな意味はない。


 ネット小説において自己肯定のループというのはしばしば見受けられる。もちろん、ネット小説に限った話ではなく、他の小説や漫画などにおいてもよく見られる。恋愛や友情といったストーリーとスポーツやバトルのストーリーが相似形を描くものがそれである。


 例えば、スポーツものにおいて、ヒロインやヒーローによる主人公への全肯定が、スポーツにおける自己実現につながるというストーリーがある。恋愛の相手による肯定が成功につながり、それによって再び相手から肯定される要因となるというループである。もちろん、そういった要素があるからといって一つの類型を作り出し、それを本質と見做すような過度な単純化は避けなければならない。ここで述べるのは要素の特性であって、その特性をいかに処理するかは作者あるいは読者の手に委ねられるものである。


 自己肯定のループというのは、つまり、目的ないし動機の外在化である。精神的欲求が行動によって満たされるというのは日常的に行われるものであるが、その精神的欲求と行動との間にに外部の承認が必要となるのである。行動する当人のある特定の価値観が行動に表れるのではなく、行動の目的を設定する価値観は常に行動者の外側に存在する。その行動の背景にある価値観が他の価値観とぶつかる場合であっても、行動者は価値観のぶつかり合い、つまり、葛藤などとは無縁でいられるのである。


 選択肢が外在するのは当然のことであり、人はそれをモラルと呼ぶ。モラルをはらむ文脈を多く手に入れるほどに、人は選択肢を増やし、少なかった時よりは自由になる。不自由に感じることもあり、葛藤も増えようが、それもひとつの自由の姿である。自己肯定のループの中では自己が肯定されるか、承認されるかのみが参照されるため、浮かび上がるのは常に選択肢のようなもの、RPGでいう「はい」を選ばないと先に進めない選択肢モドキの類である。


 こうした要素の処理の難しさは異なる価値観をもつ異者が立ち上がらない点にある。行動者の動機と行動が完全に別の次元にあるのだから、行動の面で対立していたとしても、自らの価値観は安全地帯に存在しているため、根源的な対立にはなり得ない。


 スポーツの挫折が本来は関係ないはずの恋愛の挫折へと直結するような、行動の否定を人格あるいは全存在の否定まで過度に全体化するよりほかに方法がない。世界が終わるだとか自らが死ぬだとか、パターンの蓄積はあるのだから、もしかしたら難しいというほどでもないかもしれない。


 こうした過度な全体化の思考パターンはフィクションであればひとつの構造として楽しめるものではあるのだが、現実に持ち出すには少し素朴過ぎる考え方である。


 たとえば、人気の小説を読み、それを「つまらない」と感じたとする。人気があるのだから、それを「面白い」と感じたとすれば、自らの感性が多くの人と共有されていると感じる、つまり、自己肯定感を得ることができる。ただし、ここでは「つまらない」と感じた。であれば、感性を共有できない、つまり、自己肯定できるような集団から疎外されたように感じ、自己否定感あるいは報われなさを得ることとなる。


 感性などは読書経験を含めた文化的受容経験などに裏打ちされるものであって、決して不変でも普遍でもあり得ない。もちろん、特定の作品の感じ方ひとつを取り上げて、その背景を否定することなどできはしないし、ましてや、存在全てを否定するなどあり得ない。


 単一作品の受容を存在へと拡げて解釈する構造の中では、並置されるはずの個々の感性を優劣という枠組みの中に置かれる。相手の感性が優れているから自らの感性を否定する権限を持っているのだ、という解釈である。その枠組みの中では、相手を否定し返すことによって権限を奪う以外の方法が見つけられなくなる。「つまらない」作品が持ち上げられているのは、相手の感性が劣っているからだとすることで、ひとまずは自らの存在が保証されたように感じる。


 ここではやはり異者に出会わない。異なる価値観は自らを肯定するための機能として、自らの価値観に従属させられる。従属された側の価値観も、それを否定する言説によって均質化が促進され、自己肯定のループの中に取り込まれる。さながら尾を噛み合う蛇である。


 もちろん、こうした意見そのものが相手の意見を否定するものであり、こうした意見を出すことによって自らを保証しようとする力学の中に取り込まれているかもしれない。また、「面白い」「つまらない」という単純極まりない二元論に回収することによって、その内部の差異から目をそらしてもいる。


 差異を浮き上がらせるのは常にその人の立ち位置である。そうした考えを作品内に取り入れているものも多く存在するし、自己肯定のループという差異を無効化する立ち位置というものの面白さも立ち上がり得る。


 異者との出会いや、出会いを模索する過程に読書の価値を置く立ち位置から論ずるのであれば、という前置きは必要であろうが、自らの鏡像/虚像に自らの存在を求める読書というものは奇妙なものであるし、モノマニアチックに映るのである。

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