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道聴塗説  作者: 静梓
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音読

言語文化概論より。読むこと。

 人類の世界的発明の一つに紙、草木紙というものがある。二世紀に現在の中国で発明されたものらしい。それ以前にも文字言語の媒体はもちろん存在している。木や竹の板やパピルスなどの植物性のもの、亀の甲羅や獣の骨などの動物性のもの、粘土板や洞窟の壁などの鉱物性のものなどがある。しかし、草木紙の拡がり以後にもそれらは残るものの、中心的な媒体は草木紙となる。


 草木紙も世界各地で様々な発展を遂げるわけだが、それは少し脇に置いておく。


 さて、黙読というものがある。普段何気なく行っていることであるが、これは一つの技術であり、意外と新しい技術でもある。そもそも文字文化が一般社会に広まったこと自体、近代に入ってからである。西欧においては十五世紀の活版印刷の発明がその一端を担ったであろう。


 話を戻して、黙読である。本来、書を読むというのは音読である。文字言語というのが音声言語を書き記すために生まれたということを考えると、当然と言えば当然である。幼児が文字を一文字一文字指で追いかけながら声に出して読んでいくのを考えても分かるかもしれない。


 また、先に挙げたように文字が支配階級の所有物だった時代には、被支配階級に対して文字を読み上げる必要があったということも挙げられる。文字を持たないものたちにとって、記録とは個々人の記憶に由来するものであり、世代間の縦のつながりは伝承という形で、各地域どうしの横のつながりは旅人などの「語り」という形で存在していたのである。文字の掲示よりも「語り」の方が人々にとってなじみが深かったのだ。


 国語科教育でしつこいほど音読させるのは、音声言語が文字言語に先行しているものだと教師は知っているからだろう。最近では寧ろ、音読をした方が意味がつかめないというものもいる。だからこそ、昨今の音読や声に出すという風潮が生まれたのかもしれない。


 江戸時代から昭和期まで続いた(あるいは現在も続いている)「素読」という「読み聞かせ」「復読」「暗誦」を主体とした教育法がある。解説を行わず繰り返し読むことで、まさに身に刻みこむという教育法である。当時の国語科教育(あるいはそれに当たるもの)の中心は漢籍であり、また、日本語という言語が文字言語と音声言語で乖離しがちであることを考えると教育法としてどうかという部分はある。一方で、文字言語の音声言語ありきということや音読主体であった読みのことを考えると、一種の本質であるのかもしれない。


 さて、物語の中で書を読むシーンや言語・文学教育が出てくる場合、その世界観設定を踏まえて描写しなければ、どこか滑稽なシーンになってしまうかもしれない。もちろん、一々そんなことを考えると冗長になるというのもある。フィクション性とリアリズムのバランスもある。


 ただ、文字を扱うものとして文字について少し考えを深めるというのも悪くはないのではなかろうか。


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