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道聴塗説  作者: 静梓
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過保護な視線について

 小説の読みが往々にして「過保護的」になるというのは、オンライン小説についての項で少し触れた。そこについて多少掘り下げてみよう。


 小説を読むとき、小説の中に重要な情報が含まれているからという動機づけは少ないだろう。おそらくは小説を文学的、あるいは、歴史的資料として扱うときを除けばほとんどないと言って良いのではなかろうか。もちろん、国語科の教科書においては漢字が作品内で実際に使われていることを拠所にして、常用漢字を教えたり、あるいは、古典の文法を教えたりもするが、それは教育の目的であって読書そのものの目的ではない。


 小説を読むのはその内部に重要な情報が含まれているからではなく、小説そのものが価値を持つからだ。少なくとも、読む価値があると考えるからこそ、小説を手に取るはずである。書店などに並んでいる本に読む価値があると判断できるのは、書店に対する信頼性も含めて、多くの人の目に触れることによって選抜されてきたのだという信頼性があるからである。その最たるものが古典文学であろう。


 小説そのものが価値を有していると考えるからこそ、焦らしやスカし、不明瞭な部分や矛盾点を含んでいたとしても何らかの意味があるのだと考えて読み進めることができる。もしも、語り手や作者が不親切な構成を行っていたとしても、それを直接追及するのではなく、なんとか自ら解釈を行おうとするはずである。


 オンライン小説において「過保護的」な原理が働きづらいというのは、もちろん、小説を読もうとクリックするのはそこに何らかの価値を認めたからであろうが、出版されている小説と比べれば選抜されてきたのだという信頼性に大なり小なり欠ける部分があるからである。


 また、ネットに馴染んでいるものほど、小説の虚構性を認めながらも、ネタ(嘘)とマジ(少なくとも嘘ではないモノ)を見極めようとする視線がどうしても働きがちだ。言うまでもなく、オンライン小説を虚構として楽しむものもあるだろうし、また、ネットユーザーでも素朴な視線を有したものは多くいるだろう。オンライン小説の利点でもあるコミュニケーションの簡便性が、小説の約束事を一歩踏み越えるかたちで「この部分はどういう意味か」と読者に追及させてしまうところもある。


 とはいえ、全ての約束事が無効化されるわけでもない。一人称の語り手(あるいは視点人物)である場合、その人物はストーリーをご都合主義的に進める狂言回しであったり、読者の没入感が得られやすいような人物造形であったり主観を持っていたりする。そうした約束事に対する追求というのは、程度の問題もあるが、多くの場合、小説の約束事の一つとして追及を逃れることができる。


 同じく一人称の語り手(あるいは視点人物)のとき、その人物が書き手であるという根拠が示されたり、明かな聞き手が存在したりする場合を除けば、その人物がどういった経緯で読者に対して語っているのかということが示されることは少ない。除外した自覚的な語り手である場合においても、なぜそのことが読者に伝えられているのかということ自体が語られることはあまりない。一部ミステリなどにおいては不特定多数に対する挑戦状という形式をとることもあり得るし、読者を二人称的語りの参加者へと組み込む仕掛けも存在してはいるが、数少ない例外と言って良いだろう。


 なぜ語るのか、語らざるを得ないのかという点については、小説を読むときには一先ず脇に置かれる。語りの生成について疑念を差し挟もうと思えばいくらでも差し挟めるはずであるが、そうしたパラノイア的症状を示さずに済んでいるのは小説の約束事が存在しているからだ。


 語りに自覚的でなかったはずの語り手が、唐突に読者に向かって語りかけてくるときに浮かび上がることのある違和感というのは、本来であれば疑念を差し挟まずに済むはずの語り手の属性に揺らぎが生じるからだ。読者を巻き込むためのメタフィクション的構造と本来の語りの属性との間に摩擦が生じていると言い換えても良い。


 異世界トリップや異世界転生などにおいて、フィクションの中の“現実”と“虚構”が短絡する現象は時折見られる。「小説でよくある」「漫画で見た」「アニメの設定であった」などの納得の仕方である。作者の意図について個々に述べることはできないが、少なくとも登場人物レベルで考えるのであれば、意識的無意識的によらずメタフィクション的に虚構の中の存在であると理解していると言って良い。


 信頼できない語り手として例をあげたホールデンのように、少なくともフィクション内の“現実”に脚色をして、自覚的に作り話をしているのとは逆順に、フィクションの“虚構性”に対してどこかで認識していながらも、それを現実であると見せようとする仕組みが存在している。


 こう考えていくと、メタフィクション的構造をもともと有しているからこそ、メタフィクション的語りを成しうるのだという一応の納得はすることができる。つまり、登場人物がフィクションの“虚構性”を自覚しているからこそ、現実の読者に語り掛けることによって現実を根拠にしてフィクションの中の“現実”を守ろうとしていると捉えることができるのである。語り手の読者への語り掛けをこうした迂回路を辿りながら納得するものはおそらく少ないだろうし、構造的な不和とは別の場所で、例えばこれまで述べてきたような過保護な視線の弱まりなどがあるのかもしれない。


 読者-作品間の過保護さについてはこれくらいにしておこう。読書というのはもう一つの過保護さも有することがある。読者-(作品)-作者間での過保護さである。


 読者の視線が作品というレンズを通り、そこに焦点を結ぶ作者像というものがある。意識的にしろ無意識的にしろ、作品を通して作者を覗き込むような読みというのはそれほど特殊なものではない。もちろん、作品を通して見つけられる作者というのは、実在していない造物主的な虚像に過ぎない。


 最近では少ないかもしれないが「作者の意図」を問う問題を考えてみれば良い。「近代的自我を描き出そうとした」だとか「現実と虚構が短絡した現代を明らかにしようとした」だとか、とても文学的な像を結ぶ。実際の作者の日記などを迂回路にしない限りは、「作者の意図」を問われて、「食うに困って金のために」などと答えることはないだろう。


 「三上」ということばがあるにせよ、作品によって焦点化される作者像というのは、読者の過保護的視線によって食事をしたり、排せつをしたり、眠ったりといった生活臭が取り除かれた清らかな存在である。


 昔から特に一人称小説ではよく見られる現象ではあるが、登場人物や語り手、あるいは作品によって焦点化される作者像を実際に食事をしたり、排せつをしたり、眠ったりといった生活臭の漂う作者と同一視をすることで“作者に”共感するという読み方がある。そうした素朴な読み方について批判する気はさらさらないが、一方で、SNSやブログなどでキャラを演じ、作者に対する人気投票のような小説の読まれ方は奇妙なものであると感じてしまう。


 話を戻そう。オンライン小説において、作品に対する信頼性という点で過保護な視線が弱くなりがちであり、しかし、作品を通して作者像を結ぶ過保護な視線はむしろ強化されているのではないかと考える。というのは、オンライン小説というのはメアリー・スー的側面をはらんだファンフィクションの系譜であると見られることもあるからだ。


 メアリー・スーの見方はさまざまであろうが、一つには肥大したあるいは理想化された自己像を作品の中に押し込むことで、作者としてあるいは第一読者として、押し込んだ自己像との一体感を味わい、作品内の快楽を得るものである。


 「こうだったらいいな」だとか「こうなっていたらどうなるか」だとかいった、作品の確定性を一度脇に置いた、構成を考える作者的読みというものを行っているものは間違いなくいるだろう。もともとの構成を無視してでも自身の欲望を直接反映したうえで、その作者的読みを実際に書いてみたというのがメアリー・スーであると言って良い。


 その系譜をひくと考えられるということは、登場人物(主に主人公)=作者というバイアスが掛けられやすいということだ。そうした視線が強化されるということは、その背後に実際に生活臭をまとった作者がいるということが忘れられやすいということでもある。趣味全開の作品というある種の生臭さというものはあるにせよ、作品から同定される趣味をもった作者というのは何度も述べているように虚像に過ぎない。前項で述べたように、読書行為というのは読者の鏡像をも生成するのであるから、もしかしたら、生臭い作者像というのは生臭い読者本人の鏡像であるのかもしれない。


 ともあれ、メアリー・スー回路を通る限りにおいて、さらにいえば、読者が作品(あるいは作品群)の背後に作者の像を結ぼうとする限りにおいては、読者の視線は作者の特権性を保証しつつ、作品を飛び越えて作者に対しての共感を喚起してしまうという意味で過保護にならざるを得ないのである。

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