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道聴塗説  作者: 静梓
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語りと視点

 語り手をもたない小説というものはおそらくほとんど存在しない。語り手は大きく分けて二種類存在する。一つは一人称の語り手であり、もう一つは三人称の語り手である。


 前者の場合、語り手は自らの物語を語る主人公であることもあれば、いわゆるモブのような登場人物に過ぎない物語の端っこに参加しているものであることもある。また、作者の代理人やそのほかの神のような存在が物語の鑑賞者として姿を現すこともある。そうした鑑賞者のプロフィールは詳細に記述される個性的な存在であることもあれば、ほとんど意味を持たない三人称視点に近いものであることもある。


 後者の場合、語り手はおそらくは物語の参加者ではなく、全ての登場人物は三人称代名詞や名前で表記される。もちろん、一元視点であれば登場人物の一人に寄り添っているであろうし、全知視点であれば、すべての行動や思考を記述し得る。


 語りと視点をほぼ同一に述べたが、実はこの二者は少々異なっている。たとえば、上記の三人称一元視点の中には、ものの見方や考え方そのものが主人公などに寄り添っている場合がある。三人称的な語りであり、語り手は物語の外部に存在しながら、視点は物語の内部に存在し、価値観は物語に内在しているのである。他にも子どもの語り手であり、ものの見方や考え方は子どものモノでありながらも、語り自体は大人のでなされるということもあり得る。簡単にいえば語りはどこから見るのかということであり、視点は何を通してみるのかということになろうか。


 さて、語り手というからにはおそらくはその語りには志向性がある。前項で述べたように語りはその語りが形成された時代や社会のコードを内包しているため、その受け手も必然的にそのコードが共有されていると想定される。分かりやすいモノでいえば言語である。小説が誰に対しても開かれていると何度お題目を唱えようと、日本語で書かれた小説は日本語を理解しない人にとっては単なる記号の羅列に過ぎない。また、おなじ日本語で書かれたモノであっても、古文などを読む際には当時の風習を理解していなければトンチンカンな解釈を成すこととなる。


 読みというのは完全に自由ではなくそうしたコード、つまり文脈に規制される。ただ、困ったことに、そうした文脈というのはほとんどあらゆるところから引っ張ってくることができるのである。


 もちろん、語りの受け手には作中に明示されている者もある。劇中劇というべきか、物語の中にもう一つ物語を内包している場合、作中人物の一人が語り手となり、ほかの登場人物が明示的な受け手となる。もちろんその場合も、外側の物語の受け手は物語の外に存在する。


 語りの志向性には時間的なものも存在する。多くの場合、語りは物語の全てが終わった後、その出来事を振り返るように語ることになる。もちろん、語りと出来事が同時点に設定されていることもあるし、手紙や日記のような形で語りの点を分散させることもある。情報の媒体の広がりによって掲示板やコミュニケーションツールのような短めの文章で複数人がリアルタイムであったり回想であったりしながらやり取りするような形式や、手紙や日記の変奏としてブログのような形式の語りも出現している。


 回想という形式の中で気を付けなければならないのは、視点と語りのズレである。その語りがなされるのは作中の現在であるはずだが、その視点、つまり価値判断は現在の語りによってなされているのか、当時のものに寄り添っているのか注意せねばならない。


 語りの中に登場するカギカッコ(「」)というのは引用符として理解してよいだろう。語り手が物語の中のことばを直接引用している印である。その中に入っていることばは、語り手自身のことばであることももちろんあるが、語り手以外のことばを伝えることも多い。語りの中でいえば、ある種のノイズを介在させる役割を果たしていると言えよう。別の言い方をするのであれば、語り手というノイズの入っていない登場人物たちの声を届ける役割を果たす。もっとも引用するか否かの判断は語り手に委ねられている訳だが、語り手の言説一色に染まった単声的な小説というのは平板でインパクトに欠ける。


 語りというのはある種の信頼性を持っていなければならない。もちろん、語りを疑うというのも物語を読むうえで一つ重要なことではあるのだが、一度はその語りを受け入れなければそもそも物語というものが成立しない。一方で、作者-語り手で価値観がずれており、その語りのズレをこそ焦点としている場合には必ずしも語りを信頼する必要はない。また、語り手が子どもや動物などのように十分に知識が得られていない状態であったり、薬物中毒などで知覚に対して信頼ができない、偏見を持って事物を解釈していると判断できるなど、語りの信頼を揺らがす証拠を読者が十分に得られるのであれば、これも語りを信頼する必要はない。ホールデンのように自身が語っていることに自覚的であることを明示をしている場合には、どの部分を信頼しどの部分を信頼しないのかという判断を常に読者が行っていなければならない。


 ストーリーの展開の遅延や省略によって、語りはそのスピードを操ることができる。それは読者を焦らすだけでなく、語りが何に焦点を持ってきているのかを示す術でもある。


 いずれの場合でも、語りは物語の全てを記述しえない。しかし、読者はあたかも物語全てを眺め渡しているような錯覚に陥ることがある。もちろんそれは、投影や移入による効果も内包しているのであるのだが、読者にそうした精神的な動きを誘発させる仕組みが視点は有しているのである。


 視点によって焦点化されるということは当然、焦点の外側にフレームアウトしている部分も出てくる。一人称視点であるからこそ、物語はその焦点外を完全に不可視にしてしまう。三人称視点であれば、主人公のストーリーの外側で進行しているモノを提示することもできるし、あるいは、主人公にとっては予測不可能であった事態をその外側から提示することもできる。


 ヴァイオリンソロが必ずしもフルオーケストラに劣るということはないであろうが、複層であればそれだけ個々の層を強調することも可能である。物語から語りを紡ぐというのはそういった類のモノであり、単一の物語から抽出可能な語りが織り成す構造物がテクストなのだ。

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