科挙
近代社会における公務員任用、職業資格、学校に関わる諸試験にもっとも大きな影響を与えたのは、中国高級官吏(官と吏は別物だが、ここでは官吏としておく)資格試験である科挙であろう。606年(?)に始まり、1905年に至るまでおよそ1300年間行われている。
科挙自体は、貴族による官吏の世襲や私物化をできるだけ排除し、その力を弱めることで、皇帝の権威を高めることを目的としている。同様の思想を持つモノに宦官があるが、いまは脇に置いておこう。
科挙は名目上は、門地や身分、年齢などに関係なく、万人の中から公平かつ客観的に実力を選び出すための制度である。試験内容に詩歌が含まれるため、中国古典詩には羈旅という章や項が設けられ、その中に科挙を目指した詩人の歌が載せられている詩集がある。もちろん、楽府で詠まれた詩もあるため単純な旅情のみではないが、ある程度身近な題材であったのは間違いない。中国古典詩に多大な影響を受けた和歌にも羈旅歌の項がある歌集もある。
科挙に話を戻そう。時代によって異なるが、科挙は郷試、会試、殿試などの数段階の試験に分かれていた。特徴としては、筆記試験であったことが挙げられる。西洋では、科挙と単純に比較するわけにはいかないが、大学の学位認定は口頭試問によって行われていた。
他にも、その根源にある思想から、その実態はともかく、情実を廃し、客観性や公平性を維持しようとしたことや、定員制の採用であったことなどが挙げられる。貴族の権威主義を排そうと企図した科挙が権威になるという自家撞着を引き起こし、また、万人という名目であっても、試験勉強ができるだけの経済的余裕が必要であった。
それでも科挙は長く行われ続け、近代以後西洋に伝えられ、その後いくらかの独自発展を遂げ、世界中に伝播している。
日本では、近代に西洋の試験制度が入ってくる以前にも、古代より唐に範をとった大学寮という機関が設けられている。もっとも、貴族の教育機関という側面が大きい。
どちらかといえば、江戸時代の私塾や藩校が用いていた等級制の方が実力主義的であろう。有名なところでは、広瀬淡窓の咸宜園がある。
年齢、学歴、身分による判断を廃し、その試験の成績によって等級と席次が決められていた。身分制社会の中にあって実力主義を採用し、また、評定による競争を促すことによって動機づけを行おうとしたのである。
藩校では、試験のみならず、態度目標が設定されていた。これは、近代的というよりも、合格基準を曖昧にすることによって身分制度による秩序を維持する目的があったようである。




