評価について少し
小説家になろうというサイトには評価という機能がある。その評価は評価するか否かも含めて全てを読者に委ねられている。つまり、個々の主観による評価である。その信憑性については疑問が残るモノである。
ここで小説家になろうというサイトを批判しようというのではない。
主観的評価ではない評価とはつまり、客観的評価である。では、客観的評価とはどういうモノだろうか。
学校でテストあるいは考査を受けたことのないモノは少ないだろう。これが最も身近な客観的評価であろう。前項で述べた正規分布曲線を描くようなテストが一応、客観的であり、信憑性のあるテストということになろう。
さて、学生のすべきことは、教師が重要であると示した“情報”の暗記であると考えるモノは多いだろう。それが間違っている訳ではない。昨今言われる思考力・判断力といものも“情報”がなければ成立しないものである。新たな“情報”は思考を刺激するものであるはずである。
一方で、テストや考査というのは思考を規制するものであることも確かである。目に見える評価や序列(評定)というものは、学習に対する動機づけになると同時に、その学習の方向そのものを強力に規制する。
教育というのは究極的にいえば社会に対して“ふさわしい”(この用語が正しいのかわからないが)人材を育成することにある。“情報”の暗記というのはそうした高次の目標を支える低次の目標に過ぎない。
簡単にいえば、テストや考査というのは、学習者が低次の目標をどれだけ達成できているかを見るものであると同時に、教師が授業の有効性について批評する材料であり、以後の授業を改善していくためのものである。
客観的評価には規準が必要である。正規分布曲線の頂点である“基準”ではなく、「かくあれかし」という“規準”である。
もちろん、そうした評価を成すためには一様の評価方法では不可能である。規準をどの程度達成できているかを知るためには多様な評価方法が必要となるだろう。
客観的評価が良いと述べている訳ではない。どんなに客観的評価方法が用いられたとしても、その利用において作為的な運用がなされれば、差別や選別の根拠にしかならなくなるのである。