IQ
中世社会から近代社会の大きな違いは、人間の捉え方にあるといえる。中世社会では、人間は自身が属する共同体の一員として、身分や階層、地縁や血縁、あるいは財力や宗教などといった様々な属性によって縛られていた。
近代社会は、そういった属性が社会に対する実効力を失い、有名無実化したことに対する批判に端を発する。曲がりなりにも共同体を脱した個々人がその有する能力を基盤にすえた社会秩序の正当性を求めたのである。
そこで誕生するのが精神検査である。精神検査などということばを用いると精神の健常・異常を調べるように感じるかもしれないが、そうではない。肉体に対する精神、つまり、知能や人格を調べる検査のことである。
初期の精神検査は人相学に近いものである。つまり、顔つきなどから個人の性格や能力を推定できるというものだ。また、知覚・運動の能力から推定しようとしたものもいる。それらがどの程度の妥当性を有しているのかは分からないが、限界があることは確かである。
そこで用いられ始めたのが、なじみの深いテストによる検査である。有名なものではIQという概念の登場だ。一応、示しておく。
IQ={(精神年齢)/(暦年齢)}*100
現在でもたまに見られるがIQは恒常性を有し、個々人の知能は生得的に決定されるという主張がなされる。また、そうした検査によって得られる結果は正規分布を示すという考え方がなされた。つまり、知能分布が正規分布するという結論ありきでテストの方を調整していったのである。そうした作為的な操作が科学性を保証すると考えられたのだ。ともあれ、こうした検査によって得られた結果から、個々人の差が示されることになる。
もちろん、測定された知能水準が以後変化しないという考え方には批判が起こる。検査の結果によって得られた個人差に対して、生得的な差であるとはとらえず、環境や教育による結果に過ぎず、よって知能レベルは環境と教育によって変化し得ると捉える考え方が中心となっていく。
2014/04/11 12:00
恣意→作為
修正しました。