異世界トリップのイデオロギー
地域文化概論より。ディスポアラ。
小説というのは、読者の欲求や好奇心を満足させるために、平均的なものから離れなければならない。私小説だとかエッセイなんかのジャンルは存在するにせよ、身の回りにあふれているものをただ淡々と述べていくだけでは務まらない。そこに解釈を挟み込み、イデオロギーを介在させることで再構築することが求められる。
さて、平均的なものから離れようと思えば、常識にとらわれない世界に行けば簡単である。言ってしまえば異世界ファンタジーだ。ある程度適当であってもとりあえず身の回りには存在しない「場」を設けることができる。
欠損による「負性」を主人公に獲得させるというのが「小説の書き方」やらに述べられていることがある。異世界トリップものであればとりあえず「故郷の喪失」とできるし、大目標を「元の世界に帰る」と置ける。
一本の小説も書きあげてない中でこのようなことを述べるのは烏滸がましいが、安易に平均的なものから離れられるが故に、むしろ平均的になるというよく分からない状況が起こっているのはなんとも不思議な気分である。
現実における故郷喪失者というのは、フランス革命以後の「一国家・一民族・一言語」というある種の欺瞞を暴き立てるものであり、物語としてもそういった文脈で扱われる。ディスポアラは帝国主義の遺産や故郷と居住地の緊張関係という条件が求められ「帰れるのに帰らない」という文脈で用いられることはあまりない。
異世界トリップ系の小説において前項のように技術や厄災を運ぶ客人として語るか、欺瞞を暴くディスポアラとして語るか、また主人公がどちらの立場を取るか。二種類しかないわけではなく、また相互排他的分類ではないにせよ、テクスト及びストーリーに含まれるイデオロギーが読み取れるものである。