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道聴塗説  作者: 静梓
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豊饒な土地の言の葉

※ 個人の意見です。

 前項とはある部分で矛盾したことを述べる。


 日本には俳句という世界でも有数の短い詩の形が存在する。一応、「五・七・五」と「季語」がひとつの条件のように言われる。ただ、自由律があり、季語を重視しない流派もあり、ただ極端に短い詩という理解でよいのかもしれない。


 これも色々意見はあるかもしれないが、短い詩型である以上、無駄をトコトン省く必要がある。一種の機能美の世界と言ってもいいかもしれない。


 その俳句の季語を集めたものを歳時記と呼ぶ。その歳時記を眺めていると、ふと面白い言葉にであったりする。一方で、冬の「寒○○」や「□(春夏秋冬のどれかや初)の~」のように、なんでも良いんじゃないか、と思わせることばもある。


 歳時記に載っているということは詠まれた句があるということであり、若輩がとやかくいうべきではないのかもしれない。ある種の野暮ったさが面白い句があることも確かである。


 ここからは俳句に限った話ではないが、発想の妙と出自の分からないことばというのは紙一重のものだ。


 例えば、夏の「午後のゲリラ豪雨」なんてことばは奇妙な感じがする。それはそのまま「夕立」ではいいのではないかと思うのだ。「ゲリラ豪雨」自体、「にわか雨」「通り雨」、あるいは「驟雨」や「村雨」なんてことばまであるのだから、そこから選べばよかったのではないか。


 もちろん、わかりやすさという面では、ふとラジオやテレビから「シュウウ」なんて言われても想像できないこともあるかもしれず、「ゲリラゴウウ」という方がわかりやすいかもしれない。媒体の質にもよるものもあるだろう。


 ただ、ことばにたずさわるものとして、ことばの柔軟さとは別の部分で、ことばに対するこだわり、ある種の潔癖さは持っていても良いのではないかと思うのだ。無責任なまでに用例のはっきりしない言葉を使うということが多く、出自のよくわからないことばが氾濫するというのはある面ではとても不幸なことなのかもしれない。


 俳句がとても短い詩型でありながら、詩として成立するのには、季語などの後ろに過去の作品という莫大な文化的遺産が存在しているからだ。その遺産を食いつぶすことなく、むしろ、積み重ねてきたからこそ、豊潤なことばというものが存在しているのである。


 新語・流行語というのも、人口に膾炙するうちにそうした文化的遺産を生み出しうるのかもしれない。現在使われていることば自体もそれほど長い歴史があるわけではない、ということも言えるのかもしれない。


 ただ、単純な優劣というのではない、ことばのもつ厚薄というものを、ことばにたずさわるものとして気にしすぎるということはないのではないだろうか。


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