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道聴塗説  作者: 静梓
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文学的強度

※ 個人の意見です。

 文学には強度というものがある。文学的モティーフに対する、文学構造の妥当性ということになろうか。文学的強度というのは批評空間で生じるものだ。作者は常に作品の最初の読者であるため、作品が作品として成立した時点で“作者”と“最初の読者としての作者”の間で批評空間は生じる。


 作者が「これでいいのか?」という校正・推敲は文学的強度を高めるためにも行われるものだ。作品が公開され、批評空間が広がるとともに、当然、文学的強度はより強くあらねばならない。


 いくつか例をあげよう。


 “日本における辺境”をモティーフにかかげ、舞台に沖縄を選んだとする。たしかに、沖縄は辺境ではあろうが、“東京の島嶼部や北海道ではいけないのか”という疑問がさしはさまれるはずだ。作者はそうした疑問に対する明確な回答、妥当性に対する証拠を用意していなければならない。


 “人間存在”をモティーフとしておき、舞台を異世界としたとする。モティーフとしておいた“人間存在”とは現実を寄拠にしているはずであり、異世界である必然性はなく、“なぜ異世界か”という疑問は必ず生じるはずだ。


 そうした証拠がなくとも、作品の“面白さ”にはかかわらないかもしれない。しかし、妥当性が薄くなれば作品から伝わるモティーフが薄まることは避けられないはずだ。


 もちろん、モティーフが明示的でない場合、上にあげたような疑問が見当違いなものになることもあるだろう。一方で、見当違いな意見が多く生じる場合、モティーフが通俗的な筋に飲み込まれて、伝わりきっていない可能性が大きい。つまり、モティーフと文学構造がうまく合致していないことを意味し、やはり、文学的強度は弱いといえる。


 “何を描きたいのか”というのは“何を伝えたいのか”というところに直結する。文学的モティーフと文学構造が有機的に接続せず、文学的モティーフが通俗的筋の中に埋没したり、文学構造の引力が足りないままに文学的モティーフが飛び去ってしまうようなものは、伝達という観点から論じれば、失敗というレッテルが張られてもおかしくはない。文学構造自体に矛盾が生じるのは論じるまでもないだろう。


 証拠を残すために縮こまった作品というのも面白くはないだろうが、伝えたいことが伝わらない媒体というものに意味はない。文学的モティーフと文学構造を照らし合わせ、どの程度の妥当性を有しているのか確認してみたいところである。

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