ひととはどんなものかしら?
※ 個人の意見です。
前項で人間存在は長くモティーフとして用いられてきたと述べた。人間の在り方や有り様など、ひいては、自分とはなにかというのは常に課題であったということだろう。
つきつめていえば、小説というものは人間を描くものだ。
もちろん、人間(あるいは全ての存在)には個性というものがある。人間という総体を描くというのはとても難しいことだ。作者によってつくられた、あるいは、選ばれた登場人物が人間存在の一部を代弁するものということになるだろう。
ある作品の登場人物、あるいは、同一作者の他作品の登場人物や他の作者の作品の登場人物たちがもつイデオロギーどうしの対話が物語であると言い換えることもできるかもしれない。
そう考えると「人間とはこうこうこういうものだ」とはじめから定義されている作品というのはどういうものなのだろうか。定義を打ち崩していく小説や、そこに葛藤の生まれる作品を除けば、それらの作品は何を表現しているのだろうか。
人間がどういうものであるかという問いに対する答えというのは、これまでの大小作家であれ、これからうまれるはずのそれらであれ、出せるはずはないものだ。
もしかすると、天啓的発想によって答えを得たものもいるかもしれない。狭い了見で判断するわけにはいかないのかもしれない。ただ、親兄弟でさえ完全に理解できないものを、赤の他人さえも理解できるというのは、それはそれで傲慢のように思う。
個々の人間にはおそらく、互いに素の人間があり、人間総体の最大公約数は“1”なのではないかと思うのだ。そういった考えすら傲慢で「人間とはこういうものだ」と定義してしまうものであるのかもしれない。
自身にそういった問いかけを続けながら、小さな回答を提示していくのが、小説ではないかと思っている。