モティーフ
※ 個人の意見です。
モティーフということばがある。動機や目的といったような意味でモティベーションということばと同源である。日本語に翻訳されるときには主題と訳されることもある。絵画的モティーフといえば、描く対象のことを指すこともあるし、音楽的モティーフといえば、ある音のまとまりのことを指すこともある。
ここでは動機や主題といった意味で用い、文学的モティーフと呼ぶことにしよう。
さて、文学的モティーフをもたない文学は存在しない。表現活動というのは積極的な行動であり、当然そこには表現しようという動機が存在するはずだからである。
当然、個々の作家や作品によって文学的モティーフは異なる。
仏教説話では庶民の教化が文学的モティーフであろうし、近代日本文学においては常に人間存在や自己存在といったものが文学的モティーフとして用いられてきた。もちろん、そうした社会的動機以外にも、自分の書きたいもの、自分の読みたいもの、読者が読みたいであろうものを書く、書きたいという欲求も個人的動機として成り立つだろう。
「彼らの小説は誰のもの?」で触れたが、作者の権威性というのは現在では弱まり、それに伴って文学的モティーフを求める読みというのは流行らなくなっている。流行らないというよりも、文芸という世界が大衆に開かれたことによって、文芸という世界での読みが少数派になったということなのかもしれない。
かつては、社会の中に解決すべき見えない問題があり、文学はその問題を解決するために問題を明らかにし、解決に至る、あるいは解決するための糸口を提示するものであるべきだという意識があった。そうした状況下では、主題をもたないことすら逆説的に主題ともなりえたのである。
一方で、現代では作者のもつ文学的モティーフは、読者の読みと同列に並べられることになる。大衆が大衆的性質を失い、個人間の差異が大きくなったことも関係しているのであろう。最近の読みでは、それぞれの読みを響かせることも「読むこと」の一部であり、そうした活動が読みを深めるということである、という考え方をする。『小説家になろう』というサイトの感想欄や活動報告とそれに対するコメントというのは、そうした読みを深める場所なのだろう。
文学そのものの娯楽性が強まった、あるいは、読み手が文学に娯楽を強く求めるようになった、ということもある。本来であれば、文学的モティーフに導くためのものであるはずの、通俗的な筋が、受動的読者によって、単一のものとして価値が見出されているのである。他方で、能動的読者は自身のもつ文脈に従って作者の文学的モティーフを度外視した読みを過度に求める傾向もある。
文学的モティーフが作者の中で変化するということも、あり得ない話ではない。新聞や個人サイト、『小説家になろう』などで連載している、特に長期連載の場合には、書いているうちに作者の中の意識が変化しているということがあるだろう。あるいは、そうした文学的モティーフの変化が一つの文学的モティーフとして振る舞うということもあり得るのかもしれない。
文学的モティーフがそれそのものとして読まれることはないし、読まれる必要もない。文学的モティーフのみを求めるのであれば、原稿用紙数十枚、数百枚を尽くして書くことはないだろう。とはいえ、最初に述べたように、文学的モティーフをもたない文学は存在しない。文学的モティーフは創作という観点から考えるのであれば、背骨のようなものであろう。たまには、自分のモティーフは何だったのか、何であるのか考えてみる必要はあるのかもしれない。