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道聴塗説  作者: 静梓
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作者の感性

※ 個人の意見です。

 感性ということばがある。感性の有無という考え方は、天性の才能ということばをどこか想起させる。もちろん、千載一遇の対象に出遇ったときに、作品の素材として解釈するか、単なる一事象ととらえるか、というのは一種の才能であろう。一方で、こうした感じる能力というのは鍛えることができる。様々な体験をすることや、体験を聞くこと、あるいは、文学作品を読むことがそれである。


 さて、作品に表れる作者の感性というものがある。


 詩歌であれば分かりやすい。詩歌というのは事物とことばの繋がりをズラすモノである。ハッとさせられるような繋がりを見出すことは作者の感性であろう。幼少期には、語彙が乏しいことによって、事物とことばがしっかりとしたつながりを持っていない。自身の持っている語彙で事象を捉えようとすると、自ずとズレが生まれてくる。子どもは詩人である、というのはそういうことであろう。


 とはいえ、語彙を減らすことは難しいし、文学に興味を持つような人は自然と語彙も増えていく。韻文的な感性は幼少期とは逆に豊富な経験に裏打ちされたものになっていくのである。散文でも、同じことであろう。


 散文における感性というものは、その文体に表れる。行間や空所に感性を込めることはできない。


 重要な部分をあえて描かないというのは、読者に想像させ、物語を膨らませるための技法である。極端な言い方をすれば、空所を設けることで、物語は無限の広がりを見せることになる。しかし、あまりにそうした空所が多いと薄っぺらいモノになってしまう。そもそも、空所で表れるのは読者かあるいは第一の読者としての作者の感性である。作り手としての作者の感性は空所には決して表れることはない。


 もちろん、空所の設け方や読者に「あれ?」と思わせる仕組み、設けた空所に視点が行くような構造というのは作者の感性であり、力量ということになる。ただ、自身の感性を読み取ってほしいと考えているのであれば、それを文章の中に織り込まなければいけない。


 行間に感性がこもるという考え方は、ドーナツの穴に味をつけようという考え方に等しい。しかも、それを食べた相手に「ドーナツの穴はどういう味だったか」と期待しているに他ならない。


 文章を書くモノは多かれ少なかれ、自身の感性に自信を持っていることだろう。そうした自身はどうか行間に込めることなく、文章中にしっかりと練り込んでもらいたい。

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