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道聴塗説  作者: 静梓
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物語行為

※ 個人の意見です。


 物語行為というのは、新しい世界を創造するということである。創造された世界というのは、ヴァーチャルリアリティの世界である。フィクションであれ、ノンフィクションであれ、それに変わりはない。


 ことばというのは、その性質から否応なく世界を定義するものだ。


 前項の内容を踏まえるならば、作者は外部世界を五感などを通して感知し、言語を用いて認知する。そうして砕かれ整理されることで外部世界は作者の内部世界と同化する。そして、ことばによって再定義することで、再び作者から異化され、新しい世界となって生み出される。これが物語行為である。


 元々の外部世界と作者の内部世界を通して描かれる世界というのは、間違いなく異なっている。常に与えられた状況の全ての側面に注目して伝達を行なっている訳ではないし、そんなことをしようとすれば、紙面がいくらあっても足りなくなる。


 視点を変えればことばの限界ということもできるかもしれない。個人で知っていることばには恐らく限界がある。具体的な外部世界からことばによる抽象的な世界に変換されることで、捨象される世界もあるはずだ。


 ことばの性質である以上、表現者に限らず、日常会話のなかでも失われる世界がある。つまり、人は完全に理解し合えることはない。


 もちろん、世界を的確に表現することばを探すというのも、表現者にとっては一つの楽しみであり、目標であるのかもしれない。また、日常会話で分かりあえない部分があるからこそ、ことばには価値がある。完全に伝わるのであれば、小説はもっと薄っぺらであるし、日常会話でもっと知りたいという動機もなくなるだろう。


 ただ、捨象される世界に無自覚であることは、ひどく傲慢なことだ。


 そもそも、物語行為というものはもしかしたら、とても傲慢な行為なのかもしれない。一方で、描かれない世界というのは決して存在しない世界なのである。だからこそ、作者というのは作品に対して誠実であってほしいと思う。

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